僕と妹とそばの話


単位をギリギリ取れる分の授業を受け、僕は大学からアパートへと帰った。
誰も待っていない一人暮しの孤独な部屋に僕が帰った時、日は既に暮れかけており、真っ赤な夕日が街を朱色に染めていた。
十二月のこの時期には珍しく、今日は比較的暖かかった。
しかし日が暮れると一気に気温が下がり、隙間風の吹きすさぶこのアパート(築二十年だそうだ)は凍死できる寒さになる。
寝転びながらテレビをザッピングするが、何も興味をそそるものがなく、そのまま目を閉じまどろむ。
ハッと意識が戻った時、外は完全に夜。
体が冷えてしまい、放っておくと風邪をひいてしまいそうだ。
夕飯でも食べようと冷蔵庫を開けるが、ビールと麦茶以外には何も入っておらず、僕は近所のファミレスに行くことにした。
ハンガーにかけてあったコートを羽織り、靴を履き外に出る。
何も考えずに惰性で足を動かし続けると、ファミレスへはすぐに着いた。
暖かな店内に入るとすぐに店員が席に案内してくれた。
この時の「お一人様ですか?」に「はい」と答えたのが、実は今日初めて発した言葉だ。
比喩や皮肉を使えば、正真正銘の「お一人様」かもしれない。
悲しい自嘲をしながら席に着き、メニューにざっと目を通す。
まだ体から外の冷気が抜け切らず、温かいものがとても魅力的に見える。
ちらと目の端に見えたかけそば。
メニューの写真のソバからは湯気が立上り、右下には仰々しく「オススメ!」の文字が躍っている。
決めた。
店員を呼び寄せ、そばを注文した。
店員が奥の厨房へと下がり、俺はぽつんと一人そばを待つことになった。
テーブルに水は置かれていない。


小学生六年の冬、僕に妹ができた。
お母さんが新しく結婚した男の人の連れ子だ。
郊外の狭いボロアパートは、また少しだけ狭くなった。
妹はいつもオドオドとしていた。
思春期入りたての僕はそんなイレギュラーな存在にどう接したらいいのかわからず、戸惑うとともに欝陶しいなとも思った。
新しいお父さんはその妹をよくお母さんの見てないところで殴ったりした。
そして僕には「内緒だぞ」と言ってお小遣いをくれた。
僕にはいつしか友達と一緒に妹にひどいことをして遊ぶ癖がついていた。
力の関係。
そういう目に見えないものが集団生活の中で培われていたから。
いつもいつも毎日毎日。
それでも妹はウジウジオドオドと「ごめん………」を繰り返すだけだった。
妹が来たのは生ぬるい五月だった。
僕が妹をいじめ始めたのが六月。
十二月のある日、両親が揃って出掛けた。
帰りが夜遅くになるから、これで何か食べなさいと言って千円札だけ渡された。
僕は自分だけおいしいものを食べて、残りは財布にしまおうかなと考えていた。
妹はリビングでチラシを熱心に眺めていた。
「何見てんだよ」
「おそばおいしそうだな」
見てみると、定食屋のカラーのチラシに湯気がたくさん出ているかけそばの写真が載っていた。
十二月。
暖房器具のないこの部屋、日が沈んだこの時間はとても寒くて僕もそのそばを見て素直においしそうと言った。
「これ食べたい」
いつも控え目な妹の、思えば最初に聞いたお願いだった。
それに驚いたのと、僕自信がそのかけそばを食べたかったのとで、僕は一杯五百円のそばを電話で二つ注文した。
三十分ほどしてそばが宅配のおじさんによって届けられた。
僕も妹もお腹が減っていたから、すぐにテーブルについた。
いただきますも言わずに食べ始めた。
僕は一口目をすする前に、七味を入れようと思って台所に向かおうとした。
そのとき、立ち上がる僕のヒジがそばの入ったお椀をひっくり返してしまった。
あーあー……とうろたえる僕の前で熱い汁と麺は床へと滑り落ちていく。
フローリングの床にそばがぶちまけられ、テーブルの上にもわずかに残っていた。
お椀の中にはほとんど残っていなかった。
妹に見られたくなかった。
単純に恥ずかしいのと、いつもいじめている相手に自分の弱いところをみられたくなかった。
そして、床をよごしてしまったことをお母さんに言ってしまうかもしれないことも恐れた。
些細なびくつきが伝わったからか、妹は席を立ち僕の方に寄ってきた。
少し身を構えた僕だが、妹は優しく言った。
「火傷しなかった?」
「うん……」
予想外だったが、すぐに僕はいつものように妹に言った。
「あ、そば、落ちて床汚れたの言うなよ。言ったら……あとでひどいぞ」
ひどく狼狽した支離滅裂な僕。
でも妹は比較的冷静だった。
「わたし、これ食べるから、お兄ちゃんはわたしのそば食べて」
妹にこう言われた僕は、とても恥ずかしくてうずくまってしまいたくなった。
「ふざけるな!」
いつものようにびくっとして妹がごめんと言う。
「落ちたものなんか食うな。お腹痛くなったりしたらあとで俺が怒られるだろ」
こういうしかなく、僕はあわてて部屋にこもってしまった。
ドアの向こう側の妹に一言「掃除しておけ」と残して。


十分くらいして、向こうからのカチャカチャいう音が止み、再び妹がそばをすする音が聞こえはじめた。
寒さと空腹をかかえたまま、僕は部屋でただじっとしていた。
ドアの向こうで電子レンジの音がした。
そしてすぐに部屋のドアがノックされた。
「なんだよ」
「開けていい?」
「入れよ」
妹がそばの入ったお椀を持って入ってきた。
「半分、食べて」
妹はお椀を僕の勉強机の上に置いて、また「ごめん……」と黙ってしまった。
「さっさと部屋から出てけよ」
「うん、ごめん」
「いいから早く!」
そそくさと退散した妹がドアを閉めた直後、僕は泣いてしまった。
箸を握り、一気にそばをすすり、汁まで全部飲んだ。
お椀を持っていこうにも、少し気まずい。
部屋の中で悩んでいた。
妹、僕に怒られるのがイヤで半分くれたのか。
それとも哀れみか。
優しさ。
………。
妹に素直に感謝したいのにできなくて、結局その晩僕はお椀を部屋に置いたまま部屋から一歩も出ることなく寝てしまったのだ。
「はぁ…」
ファミレスでそばを見てこんなことを思い出すなんてなぁ。
それから僕は中学校に入るころには妹をいじめることをぱったりとやめた。
まだあっちはいろんなことを覚えていて、いくつかにはまだ腹を立てているかもしれない。
あっちはまだそばのこと覚えているのだろうか。
「おまたせいたしました」
そばがテーブルにおかれた。
僕は無言で割り箸を割ってそばをすする。
すすりながら考える。
食べ終わったら久しぶりに家に電話して妹に謝ろう。
そしてお礼も言おう。
決めた。