顔とパンクス

ネットでは、発言者の顔がわからない。
いやいや、当然ですやんとおっしゃるかもしれないが、これがクセモノなのです。
他の方がどうかはわかりませんが、僕は書かれたものでもそれを書いた人の姿を想像しながら読みます。
何かを発言した際も同じように、その人の顔を想像し、どういう表情で、声音で、それを言っているのかを知ろうとします。

ネットでは、発言者の声がわからない。表情がわからない
顔がわからない。
僕のブログのプロフィール画像を見てみると、なんと仮面をしているではありませんか(僕が見たことない映画で使われていたらしいです)。
これでは、僕が文章を使って何かを主張しても、仮面がコンドームの役割をしてしまい、伝わりづらいのではないでしょうか。
まぁ画像は変えませんが。

僕はなるべくブログでのあり方と、オフラインでのあり方を一致させています。
文章の中の僕と、実際に会った僕とのギャップが少なく「初めてあった気がしない」と言われることが結構あるのはそういうトリック(?)があるからです。
そして、ブログの外でのお付き合い、実際に会って映画を見たり音楽を聞いたり文学の話をしたり家に泊まったりなどを通して、相手のことを知ろうとします。
そこで初めて、「ああ、あの記事でのあの発言はああいう意味だったのか」と真意がわかったりします。
それくらい、『文章』というのは誤解がつきものの、表面だけしか伝わらないことが多い危険なツールなのです。
『文章だけ』になってしまっては、柄のない刀のようなものです。名人にしか扱えません。


僕はまだ名人ではないので、声、顔、僕という人間の背景、などを伝えて、それを踏まえた上で何かを伝えたりします。
そういうやり方でもしない限り、情報の上っ面の誤解されやすい部分だけ、目立つ上澄みだけが伝わってしまうことがあるからです。


結局、いつもの「文章は刃物と一緒で、使いようによっては人を殺せる、活かせる、気をつけて使え」という方向へ論旨が向いているのですが(無意識にそこに向かってしまったのです。ということは、それだけそのことについて普段考えているんでしょう)今回はそれよりも『顔』について話したいことがあったりしたのです……。




顔には人間の様々な情報が詰め込まれています。
子供は、人の顔を一瞬見ただけで、その人がどういう人か(極端に言うと、敵か味方か)がわかる、というのを昔テレビで見たことがあります。
なるほど、人がたくさんいるところでは、人の顔というのは視界の中の背景でしかなく、「知らない人の顔がいっぱい」という認識しかできません。
しかし、見知った顔がその中にあると、一瞬で見分けられる、そして「お、○○やんけ、何してはるんやろか」と認識して思考することができます。

顔には人間の様々な情報が詰め込まれています。
「なんだか悪そうな顔をしている」「気風の良さそうな顔」「神経質そうな顔」「何も考えてなさそうな顔」いろいろな顔があり、それをカテゴライズすることができます。
そしてそのカテゴライズを一瞬で(そう、まばたきするより早く)できるのが人間なのです。
すごいですよね、コンピューターが一つ一つ「これは過去のデータと照らし合わせて……違う、これは……当たり」などとイエスかノーかで、0か1かで、是か非かで考えているのを、人間の脳みそは「なんか……ほら……違うんだよ……これは……」という、なんとも頼りないあやふやな思考でもって一瞬でやってのけるのです。
あやふやなのに速くて正確なのです。
そしてそんなことは……僕の言いたいこととは関係がないのです。
つまり、途中で書いてて「こんな話があったな、書きたいな」と思って書いただけです。
人間の脳みそすごい! って話がしたかったんじゃないんです。話を軌道修正します……すいません。





ええと、何を言いたかったんだろう。
『顔』の話と、ネットの情報伝達手段で顔が見えないことについて、をなんか絡めて言いたかったんです。
よく知り合った仲同士でのカメラを使って顔を映しながらのチャット(『顔』を使った情報伝達)は、たとえ言葉が少なくても意図が伝わりやすく、逆に掲示板などでの知らない人同士の『文章だけ』の情報伝達は、誤解が生まれやすく、真意が伝わりづらいじゃないですか?
そういうことを考えてみると、『顔』が原稿用紙一枚分使って伝えるような情報を一瞬で相手に伝えてくれる、すぐれたものではないか、という話になるのです。

CDばっか聞いて、ニコニコ動画に上げられている作業用BGMだけ聞いて、Wikipediaでそのバンドの歴史なんかを調べても、アーティストの言わんとすることは伝わらないのです。
ライブに足を運んで聞け、と。
歌っている歌手の顔を見て、その表情、生の声、演奏を聞いて思ったことが本当の感想だ、と。

初音ミクはどうなるの?」と言われると、それはなんかまた別の人が細かく論じているでしょうからバトンタッチで……(難しい問題だと思います。顔が一つで作り手は何千といるアーティスト。まさにアイドルじゃないですか。アイドルは作詞作曲を専門家がやってくれて、主張を歌えませんし、ステージ上の踊りも振付師が考え、CDジャケットの写真撮影、髪型、衣装、全て他人がやっています。でも顔はその人。声もその人。初音ミクと変わらんじゃん、と思うことがあります。道具じゃん。それに魂を込めるのは、なんと、ファンの方だというから驚き)。



まとめの文が思いつかないまま、力尽きようとしています。
なので、最後にこの駄文を(駄文とはいえ、一人の人間が考えて世に放ちたかった主張もあります)書こうと思った動機を……。
中学生棺桶というバンドがあります。
僕はそのバンド、というかボーカルのかのう葉蔵という人物のファンであります。
逃げも隠れもせずに怒り、意見を言い、そしてどこまでも言葉にこだわる姿勢、「秘匿せず主張する」「正しいと思えば堂々とすべし」というのを彼から学びました。
常に間違っていると思うことに中指を堂々と(そして具体的に)立てる、そんなパンクスなのです。
町田康あがた森魚、かのう葉蔵、日本には優れたパンクアーティストがたくさんいます(あがた森魚
はパンクです! 誰がなんと言おうと!)

さきほど、オンラインで彼の文章を読める唯一のサイトに言って、彼のコラムを読んできました。
いつも心を入れて読んでいるのですが、今日はひときわ心をわしづかみにされて、衝動が体を突き動かしたので、何か言いたいことを言わなくては我慢ならずに爆発してしまいそうになったので、ここに書きました。
彼の音楽はカッコいいですが、言葉はもっとカッコいいです。
いや、カッコわるいんです。でも、嘘をつかない、媚びない、裏切らない、そういう、言葉を超えた、生き方が滲む名文なのです。
『文章』を使って、文章以上の、まさに『顔』的な情報(本能で察知するような部分の情報)をびゅんびゅん飛ばしてくるのであります。

そして、ファンだと言いながら、ライブに足を運んだことがないのです。
YouTubeで映像を見て心を一気に持って行かれたので、CDだけ、音だけ聞いてもピンとこないのですが、付属のDVDを見たら音だけよりも、彼の心が微塵ではあるけど伝わったのです。
だから、今年はライブに行って、彼の怒りを、もっと全身で感じたいと思います。
生で『顔』見なきゃわからんこともあるんです。