猿の運転する世界

 ジョージは泣いていた。悲しくて泣いていたのではない。新しい世界のあること、そこに今自分がいることへの感動で泣いたのだ。



 
 動物園で産まれた子ザルはジョージと名づけられ、産まれてすぐにサーカス団に引き取られた。サーカスでは他にライオンやゾウやネコがいた。サルは自分一匹だけであった。自分の姿を認識できず、自分が何者なのかという問いに答える者もいなかった。彼はニンゲンに芸を仕込まれて、うまくできれば褒美に果物をもらい、それができなければ怒鳴られて鞭で叩かれた。

 サルは涙を流すのだろうか。答えはイエスである。サルもニンゲンと同じ様に泣くのである。ジョージはサーカスの表舞台できらびやかな衣装に身を包んで笑っているピエロが舞台袖で泣いているのをよく見た。ピエロは子供の頃からサーカスでピエロであり、ずっとピエロで一生ピエロ、死ぬまでピエロなのだ。人に笑われて愛されることが彼の存在理由であった。しかし賢い彼はもうそんなことに意味を見いだせなかったし、もっと他の素晴らしい世界へと旅立ちたかった。彼のことを指差して笑う金持ちたちと同じ町で、オレンジジュースを飲みながら噴水広場で犬の散歩をしたり、恋人と汽車に乗って海にでも行楽に行ったりしたかった。そこでは彼は誰にも笑われず、人並みの幸せを得られるはずだ。

 ジョージが最初に涙を流したのは、ピエロに共感して憐れんだからであった。ピエロはジョージと目が合い、サルが泣いているのに気付いた。ピエロはさっと涙を拭いて、サルを叱った。 
「この野郎、人間を憐れむのか、猿の分際で。この野郎、殴るぞ」

 ピエロが拳を振り上げる。しかしジョージは抵抗しない。彼の目を見つめ続ける。ピエロは手を下げ、ジョージを抱きかかえた。
「お前しか俺の気持ちがわからないのだろうか。それなら今いる世界に住む人間は猿以下なのか。俺は人間に生まれたつもりだったし、人間として生きてきた、どうやら猿と同等だと思われていたのだな」



 
 そこからは速かった。毎日の訓練で鍛えられたピエロは跳躍し、現れ、消え去った。ジョージを抱えてテントから逃げ出したのだ。ピエロはテントのすぐわきに停めてあった、動物たちを運ぶのに使うトラックに乗り込んだ。運転の仕方は雑誌に乗った漫画でしか見たことがない。ただもう闇雲に機械をいじった。トラックの椅子にビロード生地の布カバーがかかっていた。ピエロはそれを乱暴にひっつかんで化粧をぬぐった。ぐちゃぐちゃに滲んで汚い顔になったが、それでもマシだと思った。バックミラーに顔を映して彼は自分の素顔を何度も確認した。

 ジョージはトラックに揺られて安心感を得ていた。そして感動もしていた。こんな世界があったのか。窓から外を眺める。道路は綺麗に舗装されていて、人々は綺麗に着飾っている。うまそうな匂いが漂い、建物は頑丈そうだ。しかし安心はそう長く続かなかった。脱走したピエロを簡単にサーカスが逃がすわけはなかったのだ。巨大でスピードの遅いトラックはすぐにワンサイズ下のトラックに追いつかれる。サーカス団は大量の荷物を運ぶので、積載量が多くて馬力のあるトラックを所有しているのだが、荷物を載せていない状態だと汗馬のごとく速い。追いつかれたピエロたちのトラックはタイヤを拳銃で撃ち抜かれ、やがて走れなくなった。ピエロはその場で撃ち殺された。

 運転席に血まみれのピエロがへたれこむ。ジョージは小さな頃から無駄鳴きを禁じられていたので、とっさに声が出なかったが、状況を把握すると、やりきれなさで力の限りに叫んだ。ジョージの金切り声が追手のサーカス団員の耳を貫く。ジョージは彼らの顔面に咬みついた。ふいをつかれたところをすり抜けて、団員が乗ってきたトラックへと乗り込む。ジョージに咬まれてうずくまった団員は銃を乱射するが、それは町の人、他の団員へと命中する。ジョージはピエロの見よう見まねでアクセルを踏み込んでハンドルを切る。

 ジョージは泣いていた。猛スピードで走るトラックが人を撥ね、轢き、人ごみをかき分けて進むことに興奮したジョージは感極まって涙を流した。俺たちは今までこいつらを喜ばすために生きてきたが、今はもう何にも束縛されずに走っているぞ。重力さえも煩わしい。フロントガラスがだんだらに血で濡れて、赤いカーテンが視界をふさぐようになった。ジョージはクラクションを激しく打ち鳴らした。




 哀れ、ジョージは隣町の警官隊に捕縛された。そのままその国の歴史初の「動物の死刑」の判決が下り、後日、観衆の雑然とした中でジョージの斬首が執り行われた。