分厚い秘密

 裏庭にある土蔵には僕と姉の秘密がある。秘密の箱、秘密の写真がある。

土蔵はもともと曾祖父の代に作られたもので、当時貿易商人で裕福だった先祖がここに舶来品の調度品、洋服、保存食などを蓄えていたらしい。中には白色蛍光灯が取り付けられていて、土蔵の中のひんやりとした空気をさらに冷たい明りで照らしている。庭の木々が日を遮る林の中に建っているせいもあり、ソテツがよく似合う宮崎の夏でも土蔵の中は肌寒く感じるほど涼しい。
 我が家の財産は、そのまま土地ごと父親の代まで引き継がれることになった。会社も今は祖父が経営していて、ゆくゆくは父親、そして僕へと受け継がれるだろう。高校で勉強しながら大学進学を考えている僕も、そこから先の人生がほぼ決定済みなのを悟って、どこか無気力にならざるをえなかった。
 部活に入らず、小遣いをたんまりもらえるのでバイトをする必要もない。授業が終われば、家に帰ってぼんやりと過ごす毎日だ。
僕が中学生のとき、大学生の姉が失踪した。それからというもの、この家は僕と両親と祖父の四人で住んでいるのだが、広すぎて、そして静かになってしまった。
 姉は美貌の人だった。いつも堂々としている彼女は、いつでも家族の中心だった。学校であったこと、友達のこと、読んだ本のこと、いろんなことを明るく喋っているとき場が明るくなって、一緒にいて安心する存在だった。身長がすらりと高く、歳が五つ離れていることもあり、姉にはずっと敵わないと思っていた。その姉が失踪してしまうなんて……。

 僕が小学生の頃の話だ。たしか、あれはまだ一年生のときだったはず。夏の宮崎の暑さは容赦なく、僕は母親に頼んで坊主頭にしてもらったのだ。そのあとすぐ、海沿いの道を自転車に乗って友達の家まで向かった。潮風が刈ったばかりの頭に心地よく、ペダルを踏みしめながら僕はうきうきと急いでいた。海岸公園に植わっている松やソテツがずっしりと一つ一つ重そうで、晴れて青い空の軽やかさとひどく対照的だった。僕の小さな体は、それら大きな自然に押しつぶされ、さらにさらに小さくなっていくようだった。
 一番近い友達の家は、自転車で二十分ほど行ったところにある。日が暮れてくると、街灯の少ないその二十分間の道はひどく暗くて、道の広いこともあって、とても心細く感じたものだった。子どもの頃の僕は、それが怖くて仕方がなかったので、まだ遊びたいと思いながらも、少し早めに、日が照っている時間には帰るのが常だった。でも、この日は友達の母親が、お歳暮でもらったというマンゴーを帰りしなにおやつに出してくれたのだった。我が家では子供にめったに甘いものを食べさせないので、それがとてもおいしくて、丸々太ったそれを二個も食べさせてもらった。もう帰ろうと思ってから、マンゴーを食べたものだから、帰りがいつもより遅れてしまった。僕は海沿いの道を急いだ。水平線に沈む夕日が、真っ赤に僕と道を照らしていた。
 完全に日が暮れる前には家に着いたのだが、真夏なのでもう七時は回っていただろう。僕は少し親に悪い気がして、そろりそろりと戸を開けた。
 玄関に姉が立っていた。仁王立ちだ。僕の帰りをそこで待っていたのだろうか。
「おかえり、健(たける)」
「うん、ただいまお姉ちゃん」
「ちょっと健、外に出て」
 姉は無表情だった。怒られると思った。僕は無言でそのまま外に出た。姉がサンダルをつっかけて続く。姉に手を引かれ、僕は裏庭に連れていかれた。土蔵の前に来ると、姉はズボンのポケットから鍵を取り出して、蔵の扉をそれで開けた。土蔵は今まで中を見たことがなかったので、姉がそれを手なれた様子で行うのを僕は悪いことをしているようで、ドキドキしながら見守っていた。姉の手によって、重い鉄の扉は開かれた。潮風で錆ついていたのか、建てつけが悪い扉がガラガラと大きな音を立てた。僕は思わず両手で耳をふさぐ。
「あとで、油さしておかなくちゃ……」
 姉は先に入って、中から僕を手招きした。僕が扉の前でためらっていると、また僕の手を引いて中に招き入れた。手伝って、と言われ、二人で扉を内側から閉めた。
 扉を閉めると、明り取りもない蔵の中は真っ暗になってしまった。何も見えない蔵の中で、扉の開閉で体力を使った姉の荒い息遣いだけが響いた。姉は入り口の近くにあった蛍光灯のスイッチを押した。長く使われていなかったのか、はじめのうちチカチカと瞬いてから真っ白い蛍光灯が点灯した。土蔵の鍵はいつも閉められていて、中に入ったのはこれが初めてだった。蔵の中を見渡してみる。広さは学校の教室くらいはあるだろうか。棚には大小さまざまな大きさの木箱が並べてあった。姉はぺたぺたとサンダルを鳴らして奥の方へ歩き、棚の低い方に置いてあった木箱の蓋を開けた。しばらくごそごそと中身を漁っていたようだったけど、やがて姉は中から一枚の洋服を取りだした。それは外国の絵本の中で女の子が着ているような白いドレスだった。軽く手で汚れを払って、皺を伸ばすように撫でつけると、それを僕の体にあてがった。
「うん、ぴったりだ。健、これ着てみて」
 姉が無言で僕の返事を待っている。僕は怖くなって逃げ出したくなったのだけど、このとき小学六年生だった姉との体格差は歴然で、肩をぐっと掴まれると、逃げ出すこともできなかった。見降ろされながら、僕は俯いてその視線を避けて黙っていた。しかし、姉がじれるように足をトントン鳴らして僕に圧力をかけてきた。心臓を冷たい手でわしづかみにされたような緊張感を覚え、僕は息苦しさで気持ち悪くなってきた。僕が小さく頷くと、姉が嬉しそうにはしゃいだ。
「やった! 私はもうサイズ合わないから、一回誰かが着てるとこ見てみたかったんだよね」
 ドレスを置いて、姉が服を脱がそうとしてきたので、その手を振り払って自分で着替えた。ドレスの着方がわからなかったので、姉にも手伝ってもらったりしながら。
 木箱の中には靴も入っていて、それも履くように言われた。ドレスは肩を露出するようなもので、肌寒い倉庫の中だと鳥肌が立つほど頼りなかった。
「うん、坊主頭なのが残念だけど、それなりに似合ってる」
 自分がどんな恰好をしているのか、鏡がなかったのでよくわからなかったが、姉が嬉しそうにしているので、きっとおかしくはないのだろう。嬉しいやら恥ずかしいやらで、よくわからない気持ちだった。
 姉はそれから、他の木箱も開けて中からいろいろなものを取り出してきた。鳩の剥製を僕に持たせて、姉は戸惑う僕をデジタルカメラで撮影した。最初、遅れて帰ってきたことを怒られると思ってビクビクしていた僕はこの時点でもはやそんなことは忘れて、何か他の恐怖を感じておののいていた。

 姉はそのあと現像した写真を見せてくれた。
「これはお父さんたちには秘密だからね」
 そう言って、ドレスのしまってあった箱の中に写真も一緒に入れてしまった。そのあとも、何回か僕は姉の着せ替え人形にさせられてしまった。本当に油をさしていたようで、蔵の扉はその後、するすると静かに開閉した。
 姉は僕の体の産毛をカミソリで綺麗に剃って、顔に化粧を施したりもした。シェービングクリームを丹念に肌に塗り込み、カミソリの刃を体の曲線に沿わせていく。冷たい濡れタオルで剃ったあとを優しく拭かれていると、とても心地よくて、僕は本能的にこれがいけない遊びだというのを理解しながらも、心のどこかでこのことを待ち望んでいた。姉の慈しむような手つきが僕を迅速に美しく仕上げていく。幼い肌が蛍光灯の光のもとで、ピカピカと絢爛に輝いていた。
 この遊びは僕が三年生に進級するまでひそかに何度も行われた。姉は僕の女装姿を眺めて嬉しそうな顔で写真を撮った。僕はどんな気持ちだったのか、もうそれは覚えていない。
 姉と僕のその行いは、祖父が土蔵の扉を開け目撃してしまったことで露呈してしまう。そのことが直接の原因なのかわからないが、姉は気まずくなってしまって家を出て行ってしまった。家族が世間体を気にしたのか、捜索願いは出されておらず、行方はさっぱりわかっていない。
 一度、僕は写真を回収しようと蔵の中に入ったのだが、あの箱には見覚えのない錠がおろされていた。箱は開けられずじまいだ。姉のパソコンを見てみると、画像のフォルダにあの写真のデータがあった。それを僕はすぐに全て消去して、僕の恥ずかしい過去を隠滅しておいた。しかし、今になってもあの写真の僕の顔が思い起こされる。まんざらでもないような、憂いと喜びを内に秘めた、複雑な表情をしているその顔が。