真夜中にピアノを弾く

初めて彼女に出会ったのは、中学二年、秋の始まりの夜だった。
まだ残暑が残っていて、蒸し暑い夜、窓から涼やかな風が入ってきたけど、それでも暑さで眠りが浅くなる。
僕はベッドで寝ていて、暑さで目が覚めた。
時計を見ると、真夜中3時頃。
外はまだまだ暗い。
僕はまだまだ眠い。
すぐに眠ろうと思った僕の視界の端に何かが映った。
ぼんやりとしていてよくわからないが、人のようだ。
ん~………。
髪が長く、背が低い。
僕と同じか少し年下かな。
灰色のワンピースを着ていて、体の線は細い。
靄がかかったようにしか見えなかったけど、どうやら女の子みたいだ。
横顔が見えるのだけれど、目が覚めてすぐだからぼんやりとしていてよく見えない。
大体目が覚めたと言っても、夢うつつで本当にそこにいるのかもよくわからない。
真っ暗な部屋の中で少女は静かにあせらずピアノを弾いていた。
僕の部屋にはピアノはないぞ。
けど少女の細長い指は確かに白と黒の鍵盤を撫でていた。
そこにはピアノが『ある』のだ。
少女と僕を繋ぐために。
優しい、ゆっくりとしたメロディーが囁いていた。
体の奥に入り込んでくるような、怖くなるような、それでいて暖かな音。
真っ暗闇に染み渡っていた。
僕はそのまま目を閉じて聞き入った。
蒸し暑さも忘れて、気持ちよくなってそのまま寝てしまった。


次の朝。
また三時間ほどして目が覚めた僕は、ぼんやりとした頭で夜のことを考えた。
部屋にはもちろん少女はおらず、ピアノもない。
朝のねっとりとした空気の中で僕はしっかりと頭を働かす。
すると一気に目がぱっちり覚めて、逆に悪寒が走った。
もったいないことしたなぁ、と一体なんだったんだろうがいっぺんにやってきた。
夜想曲を優しく奏でてくれた謎の少女は、もう二度と枕元での演奏会を開いてくれないのだろうか。

一ヶ月が経ったある日、僕がいつもどおりに床に就き目を閉じると、何だか言い様のない空気の緊張を覚えた。
それでも疲れていた僕は眠ってしまった。
ぽろんぽろん♪
ぽろろんぽろん♪
音が聞こえる。
激しさや厳しさを一切含まない鮮麗で繊細な音色。
気づくと僕は起き上がっていた。
そしてゆっくりと視線で彼女を捕らえた。
いらっしゃい、どうぞ演奏を続けてください。
そう目で伝えたつもりだったが、実際にきちんと伝わったのかどうかはわからない。
でもごしごし目を擦って、彼女の瞳をじっくりと見つめると、あちらの方でもこっちを向いて、何かを伝えようとしてきた。
目が合った。
お待たせ。
そう僕には伝わった。
少し都合が良いかもしれないが、僕は彼女がまた来てくれて浮かれていたから仕様がない。
彼女はまたぼんやりとピアノを撫でて音を紡ぐ。
もう二度と来ないかもしれないと思って緊張して僕はその演奏を聞く。
しかし、真剣に耳を傾ければ傾けるほど、どんどん心地よい眠りが襲ってくる。
ここで眠ってしまえば、また夢だったのか現だったのかが曖昧になってしまう。
彼女がここで演奏してくれたことを、僕は夢にはしたくない。

またここに来てピアノを弾いてくれる?

僕はたまらずに声を出してしまった。
演奏の邪魔はしたくなかったけど、彼女に二度と会えないのはあまりにさびしいから。
彼女はピアノを弾く指たちをはたと止めて、こっちを向く。

ええ、よろこんで。

彼女は確かにそういった。
彼女はその日の演奏を止めて、消えてしまった。
僕はちょっと残念だったけど、その日は眠ってしまった。
そしてまた彼女が僕だけのために演奏してくれるのを待とう。
僕たちは約束したんだ。