失敗

 恭介は大学受験を控えた高校生として塾に通っていた。 小さな塾だった。 中学生と高校生を同時に教える塾で、教室内では講師が数人いつも控え室で作業をしたり、自習室で生徒がこそこそと課題を片付けていたりしていた。 商店街に面した塾の室内は割合静かだった。 
 それでも時々少し騒がしいと思うことがある。 それは高校受験に臨む女子中学生たちのお喋りの声。 友達同士で入塾したり、また中に入ってから友達ができたりと、女子の横のつながりは男子のそれに遠く及ばない強いものだった。 豪胆な父親に似ず神経質な恭介には、その年下の女子生徒たちのかしましいお喋りがなんとも集中を乱すやっかいなものに感じられていた。              
 冬休みのある日、いつものように教室に昼あたりから教室の自習室でぼんやりと日本史の勉強をしていた恭介は、机の落書きが目についた。 入塾した時からずっと消されずに残っている、恭介から見れば「頭の悪そうな」キャラクターの落書きの中、ぽつりと『あなたが好き』という小さな文字があった。 いつもならやり過ごすような他愛もない落書きの中に、青年を引き付ける、ある意味で魅力的な言葉だった。 別に何の意味もない落書きであろうとは思ったのだが、それでも恭介の性格上、頭の片隅からその丸い文字が離れることはなかった。
 自習の最中、恭介は他の机を見回した。 教室にはもともと恭介のほかに男子生徒はほんの少ししかおらず、そのほとんどが年下であった。 恭介はそれが原因で塾内で軽く疎外感を覚えていたのだが、それでも一人の方が気楽でいいなと思っていた。 思っていたのだが、やはり落書きを見てどきりとしてしまってからはもう「人と繋がりたい」という人間が本能的に持っている欲求が抑えがたくなっていた。 
 何故恭介が、誰に向けて書かれたかわからないような不透明な「あなた」に過剰に反応したかというと、恭介が使っている机は自習室の隅に一つだけある古いもので、恭介以外がそこを使用しているのを恭介自身見たことがなかったからだ。 いつ教室に来ても空いているし、自分の授業が終わった後も人が座っているのを見たことがない。 指定席のようなもので、きっと他人もそれをわかっているのだろう、言葉には出さずともその席はいつも座っている人がいるから、と使わないのだろう。 だから、恭介は好きという言葉に反応して、きっと自分のことなのだろうと思ったのだ。     

 
 この年頃の男子は、いや女子もそうだろうが、誰かに死ぬほどに愛されたがっている。 好きだと言うことに怯えながらも、やはり好きだと言ってもらいたいという思いがいつも頭の中をぐるぐると旋回している。 きっと誰かが自分のことを好きでいてくれれば、そしてそれがわかればどんなに日々が明るくなるか、と空想を働かせたことのある人も多いだろう。 恭介にもその欲求があった。 好きになってほしい欲求。 誰でも人に好かれるということにはときめくが、今まで学生時代に色恋に関わったことの無い恭介にとっては、机の落書きの中の好きだという言葉でさえも胸を心地よくノックする響きを持っていたのだ。
 恭介はそわそわしたそぶりを隠そうと必死になっていた。 それでも、きょろきょろとつい無意識に教室内を見渡してしまう。 誰かと目が合えば、それだけで顔が赤いのが、はたまたにやけているのがバレてしまうのではないかと気が気ではなかった。 びくびくとしながら、それでも自分を好きかもしれない人がこの中にいると思えば、視線がつい泳いでしまうものだ。 恭介は自分にそう言い聞かせ、首をなるべく動かさないように目玉を素早く動かして女子生徒を一人残らず始終観察していた。
 女子生徒の中で高校生も一人いたが、彼女はいつも静かで視線を机の上から逸らさずにいた。 彼女ではなさそうだと恭介はうすうす感づいていた。 すれ違う時ですら目も合わせない彼女に、自分なんかは眼中にないのだ、と被害妄想を抱いていたのだ。 それでも、もし彼女が自習室に誰もいないのを見計らってこっそりと机に落書きをしたのだとしたらいいな、と思っていた。 できれば同年代に好かれたいと思ったのだ。 恭介の中でどんどんと勝手に物語は進み、もしも付き合うことになったらどこに行こうかなんてことも考えた。 しかし、考えた後はいつも決まってそんなことありえないと口の中で呟いて幻想を打ち消すことにしていた。 恭介は臆病な性格であったから、人から好かれたい欲求が強いのと同じくらい、人に嫌われるのを恐れるタイプだった。
 

 恭介は一人でいる時間が多いから、家に帰る前に自習室でうろうろとしていれば、もしかして書いた本人から声がかかるかもしれないと思って、実際にすることがなくなってからも自習室をうろうろとして時間を潰したりした。 その時も絶えず目線を動かしていた。 講師に質問する生徒を目で追い、また自習を続ける生徒も見張り続けた。 成果が得られず帰ろうと思った時、一人の生徒と目が合った。 中学生の彼女は椅子のふちに手をかけ、振り向くような姿勢で恭介を見ていた。 目が合うとすぐに机に向き直ったが、恭介の胸は知らず知らずの内に早鐘を打っていた。 もしかして、ひょっとして、いやいや思い上がるなよ、でももしそうだとしたら……何度も心の中で呟いた。 そしてその日はそれきり気詰まりでそこにいることが苦痛になって、荷物を手早くまとめると帰宅してしまった。

 
 次の日も授業と自習のために塾に向かった恭介。 だが、今日は机の落書きに用があった。 筆跡を見たかったのだ。 あなたが好きですという短い言葉をどういう筆跡で書いたのかを確かめたかったのだ。 そしてその筆跡で誰のものかわかるかもしれないと思っていた。 
 丸みを帯びた文字。 『な』と『す』の穴が極端に小さく、『が』の濁点は大きめだ。 恭介はそれだけ確認すると、自習室をまたぞろうろつき、さりげなく一人一人も筆跡を見てみた。 すると、やはり昨日目が合った生徒の筆跡がそれらしいということがわかった。 あまりにあっけないものだなと思ったが、それは表面的なもので、その実恭介は歓喜していた。 初めて異性に好意を寄せられたのだから、素直に喜びたいのを変に気取って押し殺し、それから、そうかそうかなるほどねと納得して自分ひとりの心にしまった。 そして、悲しいことに、彼女は友達とよく馬鹿笑いしててうるさいよな、女子ってそういうとこあるよな、自分も注意できない臆病者なのは認めるけど、やっぱりうるさい女ってのは嫌なものだ、と彼女を心の中で否定して自分を落ち着けようとしていた。
 

 恭介はその日、授業が終わると教室から出て、入り口付近に立っていた。 彼女を待っているのだ。 しばらくすると出てきた彼女。 恭介は手招きをした。

「ねえちょっと」
 
 不審そうな表情で黙る彼女だが、恭介には彼女の警戒が伝わらない。

「君、僕に何か話すことないかな?」

 なお黙り込んで不審な表情を貫く彼女。 哀れ、舞い上がった恭介にはもはや照れているのだ、くらいにしか感じていない。

「ああ、今まで一回も話したことないもんね。 僕は矢内恭介っていうんだよ」

「……はぁ」

「あのさ、えと、僕の机に、さ」

「あ」

「あ! あ! 心当たりある?」

「落書き、消してなかったですね」

 途切れ途切れに、恭介の真意を探ろうと言葉をつむぐ彼女。 恭介の目に何か嫌な光が宿っているのを目ざとく見つけた。

「ただの落書き――です。 明日、消しときます」

「あの、さ」

「……」

 彼女は悟った、告白されると。 そして怖くなった。 自分が何気なく心に浮かんだ言葉を書いてしまったことが、ここまで大事になるとは、と。 彼女には恭介に好意なんて少しもないのだ。 昨日腰をぐるりと回して恭介と目が合ったのも、恭介を見ようとしてのではもちろんなく、ただ長時間座って固まった腰をストレッチした時にたまたま目についた人物をちらと見た時に目が合ってしまっただけのこと。
 勘違いしてるんだ、と彼女は思ったが、それでも罪悪感はなかった。 勘違いをさせてしまったなんて思っていない。 彼が勝手に勘違いをしたんだ。 頭に浮かんだ下らない言葉をふと書いて残したいような気分、そんなただの気まぐれを好きだという意思表示として捉えてしまった自意識過剰な彼が悪いのだと思っているだけだ。 年上の男に告白されたらどんなに素敵か、と学校で友人と話したこともあったが、今はただ恭介に対する気まずさと哀れみしかなく、どうやって断ればいいだろうかとばかり考えていた。 自分には決して罪は無いのだから、と。

 小さな災難というのは積み重なるもので、傍から見れば笑い話に思えるようなこの話、しかし恭介はこの先何年も引きずるような屈辱の最後を迎えることになる。 彼女の語彙と配慮の少ない言葉選びによって。