小説『ちなみとちひろ』第四話

 クラスメイトが席を立ち、ドリンクバーへと向かった。その背中を見ながら、私はグラスの中の氷が「からん」と音を立てるのを聞いた。一瞬で他の客のお喋りや店内のざわめきが消えて、私に静寂が訪れた。父親に定められた門限があったのも手伝い、早く帰りたいな、と強く思った。
 

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 体育の授業が終わり、見学者の私は制服を詰めてある大きめの袋を持って、体育用具倉庫の脇にあるトイレへ向かった。ここは利用する人が少なく、裸を見られずに落ち着いて着替えられるのが気に入っていた。個室に入り鍵を閉めるなり、汗一つかいてない体操着を脱ぎ去る。まるで小学生みたいな色気のない下着の上にワイシャツを羽織り、ボタンを一つずつ留めていく。胸元に赤いリボンをつけ、袋からチェック柄のスカートを取り出す。長さは調節せずそのままで、シャツを中に入れてからからホックを止めて上にカーディガンを羽織る。個室から出て、洗面台の鏡に姿を映して皺が寄ってないか、リボンが曲がっていないかを確認する。
 よし、大丈夫だ。袋を片手にトイレから出ようとすると、私が取手に手をかけるより早く扉が開いた。ちなみが入って来たのだ。私が驚いてびくんと跳ねるのを見て、ちなみは少し笑ってから私をいつもの通りじろじろ見始めた。さっきの体育でのジャージのズボンに、白い半そでのシャツという体操着姿で、私と同じように着替えの詰まっているのであろうバッグを持っていた。
 ちなみは無言で、しかも品定めをするようにねっとりと私を見てくる。耐えきれなくて私は思わず声を上げる。
「なに?」
「いや、別に」
「じゃあ、私もう教室に戻るから」
 そう言ってちなみの脇を抜けようとすると、肩を掴まれた。
ちひろもここで着替えるんだ、私もいつもここで着替えてるんだよ」
「そう……」
「ねぇ、待ってよ、避けないでよ」
「……」
 私は緊張して何も言葉が出てこなかった。ちなみが私のことを名前で呼んでいる、そして目の前にしなやかな脚で立っている。体の線が綺麗で感動する。ちなみに掴まれた肩が震える。なにより、ちなみが私に避けられるのを嫌がっているということが嬉しい。
「あ……ごめん。怖がらせた?」
「いや、なんていうか、緊張しちゃって……」
 ちなみの口から謝罪の言葉が出てきて、私の体はさらに硬くなる。とんでもないことをしてしまったような気持ちになる。
「いつも私がちひろのこと見てるのは、知ってるよね?」
 私が頷くとちなみは少し嬉しそうな表情をした。
「私、たまにちひろが私のこと見てるのも知ってる」
「うん、黒田さんのこと、見てる」
「やっぱり」
 いつもの知的な表情とは違い、無邪気にほほ笑むちなみ。私はどきどきした。顔も赤くなったかもしれない。ちなみにそのことはきっと伝わった。恥ずかしくて恥ずかしくて、今すぐどこかに走り去ってしまいたい思いだ。
「ねえ、私もっとちひろと仲良くなりたいな」
「え?」
 肩を掴むちなみの手が、カーディガンの上からでも十分に伝わるほどに熱を持つ。私が固まっていると、ちなみはさっと私の後ろに回って背中を押す。
「わ、ちょっと」
「ね、いいからいいから」
 ちなみに押されて私は空いてる個室に入れられた。ちなみが後から入り鍵を閉める。薄暗く狭い個室に二人で入り、とても窮屈だ。ちなみは体が大きいから、とても威圧感がある。重くのしかかるような空気を感じていると、実際にちなみの腕が両肩にのしかかった。ちなみは袋を床に置いて私に体重を預けるように前かがみになった。ちなみの顔が私の目の前に来る。緊張しながらも私はちなみの顔をここぞとばかりに観察した。艶やかな黒髪、柔らかそうな耳、悪いことをたくらんでそうな目、薄暗闇の中で発光しそうなほど白い肌。なにもかもが強烈に主張して混ざって整っている。私は瞳をぱっちりと開いて身動きができないままでいる。蛇に睨まれた蛙だ。
 ちなみは蛇のように舌舐めずりをした。赤い舌がちろちろと燃えて光る。私は悔しかった、ちなみに迫られて全く行動ができなくなった自分が。そうだ、図書館で初めて会った時から心のどこかでこうなることを望んでいたはずだ、なのに実際にそうなりそうになったら怯えてしまうなんて……。当然と言えば当然なのだろうが、やはり勇気のない自分が嫌だった。私は一矢報いたくなった。
「えい」
 だからちなみに反撃の狼煙(のろし)として、手始めに鼻頭に唇を軽く当ててみた。かわいいかわいいキスだ。ちなみは一瞬何が起こったのかよくわからないという顔をして固まった。