小説『ちなみとちひろ』第五話

 三分くらいしてから、ドリンクバーの前で散々迷っていたクラスメイトがごめんごめんと言いながら小走りに近づいてくる。彼女が自分の席に着こうと私の前を過ぎる時、私は足首のあたりを彼女の足に引っ掛けた。
 

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 ちなみは猛然と私に抱きついてきた。そのまま私は後ろの壁にしたたか背中をぶつけてしまい、息が苦しくなる。そこを一気にちなみが顔を近づけて唇をふさぐものだから、呼吸がほとんどできないで窒息死寸前だ。私は力を振り絞ってちなみを振り払う。私の抵抗にちなみの体は微かに揺れ、髪が乱れて、脚が触れていたトイレの扉は振動で音を立てた。
「待って……はっ……あ…苦し……ぃ」
 ちなみはまだ私に抱きついてこようとする。向こうの方が力が強く、私の腕は払われ、そのままちなみの両手によって壁に下向きの八の字に固定されてしまった。釘を刺されたかのように腕はぴくりとも動かせず、そのままちなみの突進を防ぐ術を失った私はなすがままに口づけをされる。結ばれた手はがっちりと指が絡められ、そこから伝わる体温だけで力が抜けてしまいそうだ。
「ん……ぅ…苦しい…げほ、黒田さん!」
「…はっはっ……」
 ガリリ。
 その時、私はちなみの舌先を齧った。こりこりした感触だった。味は少ししょっぱくて、そして普通に血の味がした。鉄臭い風味が口の中に充満して、鼻を抜けて一気にそれを感じる。ちなみはきつく目を閉じて痛みに耐えている。少しだけ声を漏らし、唇を私から離す。私は呼吸が満足にできなくて苦しかったので、そこでむせてしまう。
 少しだけ落ち着きを取り戻したちなみが私を解放してくれる。体を前方に折り曲げて思いきりむせる私の顔を覗き込んで、ちなみが慌てる。
「ごめん……やりすぎちゃった」
「ゲホッ――はぁ、いいよ。突然だったから、うまく反応できなくて。……こっちこそごめん」
 私は膝に両手をついて息をついた。ちなみは、今度は優しく抱きしめてくれた。
 しばらく二人は抱きしめあって唇を交わした。それから、ちなみはさっと手を伸ばして、私の血塗れの部分を触り、そのまま容赦なくナプキンの隙間へ指を突き進めようとしたが、さすがにそれは止めた。ちなみの手を取って、手首を内側に丸めて関節をちょっと決めてやる。キリキリと音が聞こえるようだった。ちなみは瞳を大きく開いて、ごめん! と叫んだ。
「制服汚れたらどうすんのよー」
「いてて……ちひろごめんね」
 私はいったんちなみを外に追い出す。制服の皺を伸ばし、曲がったリボンを直す。乱れた髪を撫でつけ、最後に少しずれたショーツをきちんと穿きなおす。個室の外に出るとちなみがにこにこしていた。
「どしたの?」
「ほらほら、これ」
 個室の白い扉、そこに赤茶の、小さくて汚いハートマークが描かれていた。
「ちょっとした記念に、と思って」
「私の血で落書きしないでよぉ」
「ねぇ、これからは私のことちなみって――――名前で呼んでね」
 薄暗いトイレの中、そのいびつな赤いハートマークはとても下品な色彩でそこに存在した。ちなみがにこにこしている。

 遠い存在だと思っていたちなみが一気に近くにやってきた日、私は錯乱して正常に考えることができなかった。だから、キスしてきたちなみの舌先を齧ってしまった。だから? 錯乱してたのがその異常行為の理由として適切なのだろうか? というか、私は考えることができなくなった時、とっさに、本能的に、相手を攻撃している、ということに、それだと、ならないだろうか……。
 個室の前でにこにこしていたちなみが、私を驚かせないようにとの配慮なのか、流れる血をごくごく喉に下して、鉄臭い息で平然とじゃあねと言ったのを、私はどきどきしながら聞いていた。