小説『ちなみとちひろ』第九話(最終話)

 クリスマスが近いある日のこと、私はちなみと同じ毛布を被って、裸だった。部屋には暖房を入れているが、それでも裸では寒い。ちなみはそんな私を後ろから包み込むように抱きしめてくれる。ちなみに剥かれた服は、部屋の隅にきっちりたたまれた状態で積まれている。ちなみもいつものように裸だ。お互いの体温が直に交流する。背中でちなみの鼓動を感じる。腹のところにあてがわれている両手が温かい。
 ちなみの体からは、私の思い違いかもしれないが、どことなく男の匂いがする。綺麗なちなみからはあってはならないことだ。その香りが、ちなみの表面からではなく、奥深くから匂ってくる気がする。男の、遺伝子レベルから匂ってくるような、私の嫌いなにおいだ。私はちなみに抱きしめられて、何も言えないでいる。「彼氏ができたの」と言われてから、今日は初めて二人で遊ぶ日だ。登下校はしていた。なるべく私はちなみの彼氏について話がいかないようにしていた。しかし、こんなに肌と肌が密着する状況で、私は嫌でもその彼氏のことを考えてしまう。
 ちなみとその彼氏は、まだ付き合って一ヶ月も経っていないし、それほどの進展もないだろう。けれど、ちなみの傍にいつもいるはずの私、その私がいないときにはその男がちなみの横にいるのだ。ちなみと会話しているのだ。ちなみの香りを嗅いでいるのだ。ちなみを想っている、ちなみに想われている。私がいないところで。ちなみは。
 思考をだらだらと巡らせながらも、結局はちなみとこうやって触れ合っていると落ち着く私は、けっこうふしだらな女だと思う。だらしがないと思う。相手に対して言わなくちゃいけないことがあるのに、抱きしめられた途端に安心してしまって、何も言わずに相手を許して、受け止めてしまう。
 愛ってのは独占だ。同時に許すことでもある。束縛や支配という、愛の一つの完成した形を取って相手を愛すること、そこに強烈なストレスが感じることもあるだろう。それを許すことも愛だ。相手を支配することが与える愛なら、許すことはその愛に答えることだ。私はちなみが大好きだ。だからちなみに恋人ができて、ちなみが誰か他の人のものになる瞬間があるという事実がストレスだ。そして、やはり同時に、そのことを許してあげることもできる。私は、もう一度言うけど、ちなみが大好きなのだ。
 それなのに、ちなみは、どう思っているのか。私には今、ちなみの内側が見えない。ちなみが限りなく不透明だ。私のことを見透かすちなみの視線が欲しい。私にもちなみの内側をはっきりと見せてほしい。

 気まずい逢引きが終わり、私は部屋で一人で悶々とした。いつものように私を性的に満足させてくれたちなみ、満足してしまう私。私はただの淫乱なのだろうか。悩む。
 きっと彼氏とちなみはデートをするだろう、クリスマスは二人で過ごすだろう。そしてプレゼントを交換するだろうし、そこで感極まってキスなんかもするだろう。それはどちらからするのだろうか? お互いの視線が交わり、何も言わずにそっと二人の距離が縮まって……。これ以上はやっぱり考えたくない。男の唇に触れたちなみの唇、というのを想像したくない。私はこれ以上考えたくはない。しかし、私は考えてしまう。ちなみのことを考えてしまう。

 クリスマスに、ちなみは恋人と過ごすことを決めた。当然だろう。ちなみにだってそういう幸せがあっていいのだ。私はそれを引き留めず、簡単に許した。非常に悲しい気持ちになって、家でじっとしていることができなくなったので、私はセーターの上にダッフルコートを羽織って外に出て、学校と家との間を歩いて往復することにした。まだ明るい内に外に出たのに、高校へ到着してまた家へ引き戻し、というのを何度か繰り返している間に住宅街を照らす太陽はずんずん沈んでいき、その内に街は夕焼けで赤く赤く染まっていった。イルミネーションの飾りつけをしている家がある。幸せがむんむん香ってくる。私はとても不機嫌な表情で、恨めしげにそれを見る。往復するごとに、イルミネーションのある家を横目で見る。思えば、私の家ではイルミネーションはもちろん、クリスマスっぽいことを全くしない。私が小さい頃は父親が私のサンタさんであり、プレゼントをくれる優しい人であったけど、私の方でそれを拒んで以来、もうずっと我が家のクリスマスはただのいつもと変わらない平日でしかなくなった。
 夕景はすぐに藍色になって、薄い墨のような色の雲と共に夜がやって来た。暗くなるのは早く、イルミネーションが一斉に輝き初めて、いつもの通学路が華やぐ。同級生には一人も会わない。みんな駅の方へ行っているだろう。誰かと楽しくやっているだろう。寂しい私は一体なんでこうやって学校と家との間を往復しているのだろう。だんだん足が疲れてきた。
 雲からは雪が降るかと思っていたが、小雨が降ってきて、少しずつ雨脚が本格的になってきた。コートを掻き合わせて、私は寒さに耐えて歩く。フードも被って雨を防ぐ。もう何がやりたいのかわからない。もしもちなみと恋人に出会ったら、とても気まずいじゃないか、私はそういうことにも気付かないのか。そう考えてみると、私は馬鹿だ。
 八回目、学校まで到着してしまい、また家へと歩き始める。もう家に帰ろう。と思っていたら、その道中でちなみに出くわす。ちなみは一人で傘を差して歩いていた。
 私はフードを外し、ちなみをしっかりと見据える。そして小走りで近づいて、雨の音に負けないよう、決して小さくない声で訊ねる。
「ヤった?」
 私は一番気になっていたことをストレートにちなみに聞いた。だってずっと気になっていたのだ。私が歩いている間。ゆっくりと二人の距離が縮まり、そしてちなみの口に男のベロが侵入して汚すこと。セックスしてしまうこと。ずっと考えてイライラしてたのだ。
「ヤってないよ」
 ちなみはいつものように意地の悪い笑みを浮かべる。もう、それはそれは嫌味ったらしい笑みだ。勝ち誇ったような笑みだ。そういう表情がとても似合う。とても恰好いい。エロい。
 ちなみは女の子らしい可愛い服装をしていた。スカートを学校の外で穿いているのは実は初めて見た。ファーのついた白くて可愛らしいピーコートを着ている。ピンク色の耳あてなんかしている。
ちひろ、メリークリスマス」
「メリークリスマス……」
「雨降っててやっぱ寒いね」
「うん」
ちひろなんて傘もささずに……びしょびしょじゃん、風邪ひくよ」
 ちなみが寄ってきて、私を傘の中に入れてくれる。いつもみたいに凍えた手をコートに中に導き、温めてくれる。
「ねえ、ちひろ、私プレゼントがあるの。それを渡そうと思って、今ちひろの家に向かってたとこなの」
 ちなみは耳あてを片方ずらす。そこにあるはずの耳はない。断面図が少し見える。耳あての繊維が血で固まっていて、パリパリと音が聞こえるようだ。ちなみはショルダーバッグの中から包装された小さな箱を取り出す。
「耳がちぎれそうに寒いね、ホントにちぎれちゃったー。なーんてね。前に言ってたよね、ストラップにしたいって。だから私からの些細な贈り物」
 会心のプレゼントだった。だからあんなに勝ち誇ったような笑みを浮かべていたのか。しかし、それでも私にはまだまだまだまだまだまだまだまだ全然足りない。
 聞いちゃいけないと思いつつも、私はやはり聞いてしまう。
「ねえ、私と彼氏さん、どっちが大事? 私は親とちなみだったら断然ちなみ取る」
 驚いた表情のちなみ。あ、この表情はあまり見たことがないぞ。
「ありがとう。でも、私は選べないな。どっちが、なんて二者択一で友情と愛情選べないよ」
 私は足の疲労を感じて、立っているのがだるくなる。
ちひろは可愛いから、いつかきっと素敵な人に会えるよ」
 ちなみは優しく微笑む。お母さんみたいに。そしてふんわりと正面から私を抱きしめてくれる。コートがもこもこしているが、それでもちなみを感じることができる。私は叫ぶようにしてちなみに言う。
「私はちなみしかいらない。ちなみを独り占めしたい。ちなみを、全部ちょうだいよ!」
 あ、私泣いてる。また泣いてる。大事なときはだいたい泣いてる。だから私は駄目なんだ。女の子は駄目なんだ。

 私はちなみとその場で別れを告げて、駅へと向かった。そこからはだるかったので、バスを使い、ホームセンターへと行って小さいクーラーボックスを買った。
 ちなみは将来、結婚して子供を作って、それなりに幸せに暮らすだろう。どんなに苦しいときでも、ちなみのいない私より、少しは幸福だろう。


                                       ~了~