みどりぬま

 ニッケル町、金属ヶ丘1丁目の三番地、工業地帯の中にぽっかりと自然がある。僕の住んでいるのは鉄くずの町の中にある唯一の公園のその隣だ。工業高校で旋盤を操り油まみれの青春を過ごした父親が、自宅近くの工場に勤務してこつこつ貯めた金で買ったトタン屋根の小さな小屋が棲家だ。夏は暑く冬は寒い。その上一年中室内が高い湿度で、床は油でべたつく。壁が薄く、外で酔っ払いが立ち小便をするときのチャックをおろす音まで聞こえる。家には僕と父親と妹の三人で住んでいる。僕たち兄妹には自分の部屋がなく、居間で全員そろって食事をして、そろって雑魚寝をした。父親が朝8時に工場へと働きに行き、夜の10時に戻ってくる。僕は中学を卒業したと同時に何でも屋をはじめたので、それで小遣いや家の諸経費を稼いでいた。妹は今年で十五になる美貌の乙女だ。しかし喉か脳の異常で(金がもったいないという理由で医者には精密に調べてもらっていない)、言葉を聞いて理解はできても話すことはできず、意思の疎通は首を傾げたり手をばたばたさせるのみ。妹は鉄くずやアルミ缶、空き瓶を拾っては金に替えているが、それでは妹に似合う可憐な洋服を買うことはできない。
 家の隣の公園にはベンチと鉄棒と小さな砂場がある。あとは近所の住民に「みどり沼」と呼ばれる水の溜まりがあるだけ。みどり沼は名前の通り、非常に濃い緑色をしていて、その濁りで水底は見えない。しかし長い木の棒で突いてみたところ、かなり深い池であることはわかった。とても不快な臭いを放つので、小さなころにいたずらを叱られたら父親に「みどり沼に放り込むぞ」と言われたものだ。僕は、自分がヘドロにまみれてもがく様を想像しただけで呼吸が不自由になり、喉に苦い水がこみ上げてきたのだ。妹もみどり沼に近づくのは嫌なようで、ある日僕がいたずら心で妹をみどり沼の淵まで引っ張って行き、そこで水面に浮かんでいる空き缶を指差して「ほら、あの缶も売れる」と言うと、鼻を押さえながらサンダルをぺたぺた鳴らして走り去っていった。
 みどり沼がそんなに汚いのは、この町の土壌やこの町に降る雨が汚れていることもあるのだけど、人々が沼に様々なものを不法投棄することも原因だ。飲み残したジュースの缶などはまだいい方で、捨てるのに金がかかるトラックのタイヤや使用期限の切れた薬品の入ったガラス瓶、さらに車に轢かれて死んだ犬やカラス、去勢手術を施されなかったことで大量に増えてしまった子猫やその親猫。沼には人々が隠蔽したい物がたくさん沈んでいるのだ。
 


 妹が十六歳の誕生日を迎えた。女はこの国の法律で十六になると結婚することが認められている。父親はどこか資本家の男にでも妹を嫁がせようと考えているようであったが、妹は曖昧に微笑んで首を縦に振ることはしなかった。僕も父親に縋ったのだが、酒を飲んだ父親には言葉が通じなかった。
 父親は自分に抗おうとする妹に激昂した。すごい剣幕でどなり散らした。言うことがなくなると、今度は妹の手を引っ張ってみどり沼のある公園へと連れて行った。上下が灰色のスウェット姿のままの妹が、水色のつなぎ姿の父親に連れられていく。妹は裸足で引きずられるようにして歩き、砂利で足の裏を切ったりした。父親に頬を叩かれたし、手首を強くつかまれて痣もできたろう。痛みに顔をゆがめ、化粧もしないで髪がばさばさの妹。僕の哀れな妹。父親はついに妹をみどり沼に放り込んでしまった。そしてもがく妹に石を投げつけた。妹が沼の水を飲んで苦しみ、いびつな声を上げるのを大きな声で笑った。妹は父親のいるのとは反対側の岸まで泳いでたどり着いたのだが、スウェットが水を吸って重くなっていたので、持っている体力をすべて消耗したようであった。命の危機に際して、妹が持てる力以上に体を動かせたのだが、岸にたどり着いた安心感から脱力したのだろう、妹は木の根に体を預けてぐったりとしていた。「今夜は家に帰ってくるな。服はどっかで洗ってこい」父親はそう言うと、家へと帰っていった。僕はその一部始終を、父親の影から全て見ていたのであった。妹には声をかけることができず、父親の後に続いて家に帰ることにした。



 妹は翌日、公園で遺体で発見された。体は傷と痣だらけで、着ていた服は木の枝に引っかかっていた。遅番の仕事が終わった労働者たちに乱暴されたのだろう、と警察からは聞いた。僕と父親は昨晩のことを黙っていた。おかげで、犯人たちからはたっぷりと慰謝料をもらえた。父親はそれを葬式の費用には充てず、きっと行きつけのスナックのコンパニオンを高級なデートに誘って使ってしまう予感がする。僕もそうした方がいいと思う。
 妹の死因は乱暴されて内臓が破裂したことによるショック死ということにされたが、本当の死因はみどり沼の水を飲んでしまったことだ。みどり沼には人々の後ろめたい思いがたたえられている。その中には、父親と、そして僕の「この美貌の女をなかったことにしたい」という思いも浮かんでいた。そりゃ、そんな汚い水を飲んだら内側から腐ってどろどろに死んでしまうよ。