山登り

 都心から電車で数十分のベッドタウンに男がいた。彼は鉄道会社に勤務している。鉄道会社と言っても、車掌や電車の整備士などではなく、駅の清掃員だ。彼の仕事は駅のトイレの清掃、構内のゴミ箱の整理、地面にはりついたガム剥がしなどであった。
 彼は学生時代にテニスをしていた。身長が高く肩幅の広い体躯で、足についた筋肉は疲れを知らずにコート内を駆け巡ることができた。しかし今、彼は清掃員の一人として、薄緑のつなぎを着てモップを握っている。ラケットを振り回していたときに比べて筋力は衰えてしまい、体重もかなり減った。あのときの汗をかいて走り回っていた男の顔は、今ではいつでも卑屈に愛想笑いを浮かべているような表情になってしまった。自分より先に入社した中年男性の清掃員に世辞を言ったりする、そんな弱い若者になってしまった。
 
 彼は電車に乗って行く多くの客をいつも一人残らず観察していた。動体視力が良いので、朝早い時間帯に大量に電車に乗り込むサラリーマンや学生たちの顔でさえ、ちゃんと見分けることができた。今日はあいつは寝坊した、昨日は寒かったから風邪を引いたのかもしれない、あいつは体をすぐに壊しそうな貧相ま顔立ちをしていたから。仕事中の楽しみと言えば、それくらいのものだった。階段の手すりを磨き、クレンザーを撒いて地面を機械で磨く作業中、横目で観察をしていて中年男性の清掃員に注意をされてからは、なるべくバレないようにこっそり盗み見るようにした。







 ある会社員がいた。彼の仕事は、菓子パンを加工する工場のあんこをかき混ぜて均等に砂糖や小豆を撹拌する機械、の部品を製造する町工場、に部品の受注をしたりその納品や会計をすることである。少し太ってはいるが中学生のときに複数の男子から告白されたことのある妻を持ち、その複数の男子の中の一人がこの会社員の男だった。男は大学に進学した折にその妻となる女と再会を果たし、四年間付き合い、大学卒業後にすぐ結婚をした。慎ましやかではあるが、幸せに包まれた生活を送っているつもりだ。妻は二年前に男の子を産んだ。二人の宝であり、この子を大事に育てていこうと二人は決めた。
 彼は都心から都心にある小さな貸しビルの中の小さなオフィスで働いているが、家はそこから電車で数十分のベッドタウンのアパートだ。日当たりが良く、駅から小さいのだがわけあり物件ということで格安で借りている。その彼が利用する駅に、ある清掃員がいる。清掃員は仕事中、時折手を休めて駅の利用者をじっと見つめるのだ。男は、その清掃員を薄気味悪く思っていた。駅というのは、目的地へ連れて行ってくれる電車の停車する場所だけでなく、自分を迎え入れてくれる安心できる場所でもあると男は考えている。そこに不気味な男がいて、目が合うと気が滅入る、というのは勘弁してほしい。男は働き続けた、その駅をこれから十年は使うだろうと考えていた。

 男はある秋の晴れた日に、家族三人で行楽に出かけた。紅葉狩りだ。いつもは上り電車に乗って会社へと行くのだが、休みの日には決まって下り電車に乗って三人で出かけた。息子はもうベビーカーを必要としないので、行動範囲はぐっと広くなった。今日は山に登って息子に綺麗な紅葉を見せよう、妻には息子が自然の中で遊ぶ様子を写真に撮ってもらおう。自分はその中で清潔な空気をたくさん吸おう、頂上では妻の作ってくれたおにぎりを食べよう、コーヒーを飲もう、そう考えていた。
 支度をして、駅のホームで電車を待っていた。各駅停車の電車を見逃し、次の急行電車に乗ることにした。息子がなんで今の電車に乗らなったのか聞いてきた。まだまだ拙くて単語の羅列が主であるけれど、言葉を話し始めてから、息子のことが前よりずっと愛おしくなってきた。男は息子に丁寧に説明したのだが、妻にそんなこと言ってもまだわからないよ、と笑われた。男は次の電車が早くこないかと心待ちにしていた。






 清掃員の男はホームのベンチにかかった汚物を見て顔をしかめた。金曜日に飲みまくったあげく、土曜日の始発に乗って朝帰りした酔っぱらいが駅について安心して吐いたのだろう。自分の管轄でこんなことはやめてもらいたい。麺の切れ切れになったのや米粒の混じった吐瀉物が乾燥してベンチにこびりついている。ホームに設置している水道からホースで水を引いて、これをふやかしてから雑巾で擦って落とす。デッキブラシを使って排水溝に流し落とすと、アルコール洗浄液をひたした布でベンチをまた丁寧に磨く。分厚いゴム手袋をしてはいるが、男は自分の手に匂いが染み込んでいくような不快な思いをした。
 作業が終わりに近づくと、男に周りを見回す余裕ができた。ホームに休日を過ごす予定の様々な人が電車を待って並んでいた。その中に親子三人でリュックサックを背負っている家族がいた。まだ灰色の空だが、午後から晴れるとニュースが言っていた。そうか、紅葉狩りにでも行くのだろう。男はその親子の中に知っている顔を見つけた。ああ、あの男はいつも7時39分着の急行電車に乗る男だ。無表情だが、何か力強い生気を感じる顔つきだったはずだ。それは家族を養うために働こうという気概の表れだったのか、男はそう思った。いつもより二時間は遅くお目にかかったその男の家族の前に電車が到着した。だがそれを見送って、また三人は談笑を始めた。各駅停車の電車に乗らず、次にやってくる急行の電車に乗って行くだろう。今日くらいは空いている各駅停車の電車に乗ればいいのに、こういう休日のときでさえ、つい癖で早く目的地に行こうとしてしまうのか。清掃員の男がそのことに思い至ったとき、家族の前にまた電車が来た。そして三人を乗せて電車は都会から離れていく。
 男は無性に山登りをしたくなった。頂上に辿りついたら、下界の景色を一望しながら缶コーヒーでも飲もう。煙草も吸おう。自分は一緒に登るような恋人はいないが、友人なら誘えば誰か来るかもしれない。いや、一人で登ろう。一人で誰にも気を使わずに、会話の内容など考えず、世辞のことなど考えず、疲れたら自分のペースで休憩をし、道の途中で立て看板があれば、気のすむまでそれを読もう。何か山に関する由来などが書かれているかもしれない、そういう細かなことにも目を向けて山を登ろう、そう思った。
男は次の休みまでどれくらいか頭の中で考えた。そして費用のことも考えた。水道局に一か月滞納している、ガスはちゃんと払った、食費は切り詰めよう、酒を少し減らそう、煙草だって我慢すればなんとかなるだろう、家賃は少し高いと思っているが、他のものを切り詰めて今月をきちんと働けば余裕は作れるだろう。次のまとまった休みまで一カ月もないな、秋が終わる前に、一人で山に登ろう。ちゃんと準備をして、早起きをして、次の日に筋肉痛がやってきたらその日は一日家で休んで過ごし、次の日までには回復すればいいだろう。そうしたらまた働こう。
 男は秋晴れの日曜日に、山の頂上から見える景色を頭に思い浮かべながら駅の清掃作業を続けた。呆けたような顔をしていてはまた注意されるので、男は気を引き締めてしっかりしている顔を作った。仕事をスムーズにこなし、パートナーの中年男性をほめそやし、そして頭の中は自然豊かな山梨県あたりの山々のイメージでいっぱい満たされていた。