山に登ろう! (下)

 ワンゲルはまずお弁当を拵えるところから始まる。梅干しを入れたおにぎりをアルミホイルで包んで持っていくだけのときもあるし、お弁当箱にウィンナーや卵焼きや小松菜のお浸しを入れたりもする。水筒に麦茶を入れて、他には絆創膏とハンカチなどを持って、タオルとティッシュも持っていく。そしてお気に入りの、空気で膨らませて使うタイプの枕だ。これが私のワンゲルのときのだいたいの装備。学校帰りにふらっと登るときはほぼそのままの恰好で行くけど、これくらいは持っていきたい。知らない山に登るときはもっと色々準備をするのだけど、マルトーに登るときはこれで十分。ワンゲルで一番楽しいのは、頂上で食べるお弁当なので、ここはなるべくちゃんと用意する。ここで何もないと悲しいので、ふもとのコンビニで何か買っていくこともあるけど、やはり自分で作ったものが一番おいしく感じる。
 高校最後の夏休みが終わる直前、蒸し暑い夜にマルトーに行った。誰もいない山道を、月明かりを頼りに進む。ワンゲル用に買って、履き古したスニーカーで夜露で湿った山道をぎゅっぎゅっと踏み踏み歩く。私ひとり、夜のマルトーで黙々と歩く。音楽を聴いたりはしないで、ひたすら山の音を聴く。動物が動いて草木を揺らす音、虫の鳴く音、ふもとを走る車のエンジン音、それに自分の息使いと小枝を踏み折る音が加わる。静かなのだけど、集中するとたくさんの音に溢れている。ワンゲル中、私の語感は研ぎ澄まされる。テンションが上がる! 私はさくさくと頂上を目指す。


 頂上に着いたら、すぐにいつも座るベンチを目指した。そこで夜食のおにぎりを食べたら、ちょっと月光浴でもしながら山頂のゴミ拾いでもしよう。煙草の吸殻やコンビニ弁当の空き箱が捨ててあったりするのが、私には耐えられないほどムカつくのだ。マナー違反というより、ワンゲル・スピリットに反している。山に登るのなら、やはりゴミは持ちかえるべきだし、もっと言うならゴミになるような物を持ってくるな!
 私が義憤を感じていると、ベンチに人影が見えた。なんと、先客がいたのだ。頂上には一つだけぽつんとライトが設置されているのだけど、角度が悪くて相手の顔がよく見えない。見えないが、体格と服装から男であることがわかった。やばい、怖いよ。私はいざとなれば走って逃げようと思った。誰よりもこの山に登り慣れていると同時に、誰よりも多くこの山を下山しているのだ。当然だけど。最短のルートを駆け下りれば、誰も私に追いつけないだろう。
 男はベンチに横になっていた。仰向けに寝ているようだ。でも相手も私の気配に気づいたようで、むくりと起き上がる。顔はよく見えない。だけど、あちらから声をかけてきた。

「あれ、小峰さんじゃない?」

 名前は知らないけど、その顔を見るかぎり、なんと彼はクラスメイトの男子だった。

「もしかして一人で登ってきたの?」
「そうだけど……」
「俺のこと、わかる?」
「同じクラスの……誰だっけ?」
「おいおい! 町田だよ! もう三年だってのに、ひどいな」
「だって、なんか地味な人だったから、顔は知ってたんだけど名前は、ね」
「がっかりだな……。まぁいいや、何しに来たの? 俺はこのままここで夜を明かそうと思ってる」
「あれ? 町田くんも一人で山登りすんの?」
「するよ。丸東山はしょっちゅう登ってる」
「私もよく登ってるよ! 今夜は私も頂上で朝日でも見てから帰ろうと思ってたの」
「へぇ~、流行りのワンゲル女子ってやつ?」
「違うよ、私はこの道六年のプロなんだから」
「そうなんだ」

 私はリラックスしていた。こんな趣味の人がいたなんて。願わくば、女の子だったら友達になれたんだけどな。町田くんか、どんな人か全然わからないな。私はいつも山頂の小屋のトイレの個室で夜を明かすのだけど、町田くんはベンチで寝るつもりだったのだろうか。

「そこで寝るつもりだったの?」
「うん、蒸し暑いから眠れると思って」
「山を甘く見ちゃだめだよ、夜の間に水滴が体について、風が吹いたら体温なんてどんどん奪われちゃうよ」
「じゃあ、小峰さんはどうしてるの?」
「そこのトイレの個室で寝てる」
「え、汚くない?」
「気にしなかったらけっこう快適だよ。枕さえあれば眠れる」
「臭そう」
「凍死するよりいいよ」
「本当にプロなんだね」
「まぁね」

 町田くんの隣に座り、私はおにぎりを食べ始めた。町田くんは鞄の中からあんぱんを取り出して、水筒からは温かいコーヒーの匂いがした。米派の私と反対、甘党でパン党だ。そのことを皮切りに、私は町田くんと話し始めた。寒くなったので町田くんの持ってきた毛布を二人で使った。
 今日初めて会った人なんだけど、山には他に誰もいないからこんなにも無防備になれる。男の子の前だというのに、町田くんが危険じゃなさそうだからどんどん余計なことまで話してしまった。むしろ、今日初めて会った人だからこそ、こんなに喋れるのかな? 
 町田くんは時々、こうして夜中に山に登っては煙草を吸ってから下山するらしい。そして山の頂上以外では煙草を吸わないらしい。真面目なキャラだから、人に見られるのが恥ずかしいようだ。一週間に一本くらい、こうして吸うだけだから、一か月以上前に買った煙草をまだ吸っているんだってさ。私は町田くんに煙草を吸っているところが見たいとリクエストした。か細いライトの明かりに照らされて、慣れた動きで煙草に火をつける町田くん。私は別に彼の普段のキャラとかわからない、ていうか興味ないのだけど、人前では吸わない方がいいなとは思った。まだ幼い感じの残る横顔が煙を吐き出す口元は、かわいいけどなんだか滑稽でもあった。おかしくて吹きだすと、町田くんは傷ついてしまうだろうから私は真顔でじっと観察した。町田くんは律義に携帯灰皿に灰も吸いがらもきちんと入れた。そして上下に軽く振って完全に消火してからポケットにしまった。
 吸っている間無言だった町田くんがこちらをちらっと見る。何か言った方がいいのかな? 迷ったあげく、私は拍手をした。町田くんはやめろよっと言いながら慌てて拍手をやめさせようとした。私は楽しかった。なんだ、人と山に登るのもたまにはいいな。ゆっくり自然を感じるには一人がいいけど、ときどきは友達を誘って「ワンワンのシーン再現しようよ!」とかやって遊ぼうかな?
 やがて朝日が昇ってきた。明るくなって互いの顔がはっきり見えるようになると、急に照れ臭くなり、私はそれを悟られまいとして、一人で先に下りるねとだけ言い残し、さっさと下山してしまった。
 

 それから私は受験をさっとパスして大学に行く。山に登らなくなる。町田くんとも卒業式以来会っていない。センター試験が始まる前にとっくにワンワンは放送を終了し、世間からワンゲル女子なんていう言葉がなくなり、次に放送され始めた「清掃員は見た」という陰鬱なドラマにみんな夢中になっていた(味があってけっこう面白い)。町田くんはきっと大学の構内でなんの恥ずかしさもなく堂々と煙草を吸っているんだろうな。私は山に登らなくてもいつも通り元気だ。あの頃はなんであんなにワンゲルなんてやってたんだろうって思う。今では元気なんだけど、なんだかなぁ、ちょっと。なんかバランスが悪いのだ。でも狂ったように山に登りまくるんじゃなくて、たぶんお休みの日にたまに親しい人と登りに行こうとは思っている。たぶんそれくらいがちょうどいいんじゃないかな、とも思う。あの頃から薄々思っていたけど。