緑黒飛蝗「コレハフィクションデス」評

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 新波小説団団誌三号の45ページより始まる、緑黒飛蝗(みどりぐろばった)氏「コレハフィクションデス」について書こうと思う。見当違いのことが書いてあったらすまないと思う。


 まずはじめに「コレハフィクションデス」は、「新波小説団」という表現活動集団の活動理念として、氏が掲げる「今にこだわる文学」というのを非常によく体現している作品であると感じた。氏の実生活を少しでも知っている者なら、この氏の生活に酷似した内容を見て眉をひそめることもあるかもしれない。
しかし、タイトルの通り、これはフィクションなのである。事実に酷似した偽物である。それでいて、最後に登場人物の「僕」である「表二」の叫ぶ「その世界に僕は生きていたんだ!」に全ては集約されているだろう。そう、私たちが生きている世界でさえ、時としてフィクションになりうるのだ。

 鋭い語り口調で、自らが傷つくことを恐れずに書かれたこの作品は、氏を知らない人が見るのと氏や氏の過去の作品を知っているのとではまた違った読みが生まれるであろう。しかし、緑黒飛蝗という存在を知らなかったとしても充分楽しめるように書かれている。九つの段落からなる中編で、それぞれ世界や書き方を変えているのが意欲的で、そして意味のある試みである。
 例えば三段落目の「doll fiction」では、自分をスーパーヒーローだと言い、敵を倒してバーで酒をあおる男が出てくるのだが、それを操る大きな手が出てくる。彼はただの人形であったのだが、それを操っているのが「俺」であるという奇妙な締めくくり方をしている。
 段落ごとに世界が二転三転しているのだが、そのどれも「僕」が生きている世界で、それを軽んじることはできないのだ。

 主人公のいない世界を書いている作者が作業を中断させたために崩壊を迎える世界であがく「僕」や周辺の人物。その崩壊のあわただしさで、氏の目線は厳しくあるようで優しい。世界を憎んでいるように見られるが、どこか自分の身の置き所を探している「僕」はフィクションだけではなく、現実の世界を諦めないのだ。そこに、読者は安心させられるのだ。
 読者含め、全ての人間が生きている世の中がフィクションであろうとも、「この世界に僕たちは生きている」んだということだ。今、この瞬間、それを否定せずに「これはフィクションです」というジョークで優しく包み込んで肯定した作品に氏のゆがんだ愛情を感じずにはいられない。

 なお、この作品はやはり現実を元にしたフィクションなので、多少アクが強い。こちらをノックアウトしてやろうという気概に満ちている。なので、読む前には軽くストレッチをして、ボクシングのリングに上がるような気持ちで読み始めるのが良いだろう。実に気持ち良くノックアウトしてくれるが、こちらもただではやられないぞ、という気持ちを持って齧りつくように味わって欲しい。この作品をただの大学生の書いた物語世界としてではなく、現実に深くかかわる、目の前に相手が座って語りかけている文章のような気持ちで接することが望ましい。氏も、暇つぶしに読まれるようには書いてないであろう。僕はそのように強く氏の書いたこの作品を推薦するものである。ひとつ文句を言いたいことがあるとすれば、僕がでてきてないぞ、ってことであろうか。





つ~ま~り~、おもしろいからぜひ読んでやってね、ってことです!
以上、新波の柳井がお伝えしました。