地球のお友達(上)

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「あの子、男子と付き合ってるんだって」

 ある朝、私が教室の自分の席へ着くと、隣の席でクラスメイトが集まって話していた。ある女の子が男子と付き合っているという内容なのだ。私は会話へ加わらず、そっと聞き耳を立てる。

「でさ、私聞いちゃったんだけど、もうヤっちゃってるんだってさ」

「うっそ、男子とヤったの? うっげ~」

「ホントホント、だって本人から聞いたんだもん」

「え~、自分からそういうの言う?」

「だよね、変な子だとは思ってたけど、まっさかねぇ」

 クラスメイトは気味悪そうに話しているけど、口の端が笑っているのを私は見逃さなかった。なんだか面白いことが起きて楽しんでいる風なのだ。私はうつむいて話を聞いているだけなんだけど、なんだかその輪にもう加わってしまっているような気になる。
 中学生にもなると、女の子の大半はもう大人みたいな口ぶりで世の中を語ったりする。それはまるでおばさんの井戸端会議のような雰囲気で、私はそうなりたくないなと思いながらも、噂話や陰口に興味を示す自分自身にも気づいていた。なんで男子が同じ学校に通ってるんだろうね、なんて話しているクラスメイトの話を盗み聞きしながら、内心では私も同じように男子について考えている。
 この国では、というか先進国ではとっくに異性愛というのはマイノリティーになってしまっている。十九世紀、女性の皮膚細胞から精子を作り出す技術が開発され、それは二十世紀になって実用化へと動き出した。それは科学だけの話ではなく、産業、道徳、文化をも巻き込んで地球上の性への考え方を変えてしまった。女性は女性と結婚して子育てをすることが当たり前になっていった。男性中心の社会が有史以来続いていたのが、今では逆転してしまったのだ。
 私は小学5年でこのことを習った。クラスに男子は十分の一ほどしかいなかったが、みなおとなしくその話を聞いていた。彼らがどんな気分だったのかはわからないが、私は「男の子ってなんで地球上にいるんだろう」って素朴な疑問を抱いたものだ。それは、昔は男子が必要な社会だったのだろう。しかし、現代において男性というのはどう女性と関わっていけばいいのだろうか。繁殖には必要がなく、経済的にも消費者であり続ける。自然に生きる動植物に「男性」「女性」まだまだ必要だけど、人類には?
 2000年を過ぎて、世の中は二十一世紀へ突入した。私はそのときまだ小学生だったからピンと来なかったけど、今ならわかる。もう人類の歴史から見て、ヒトというのは十分に爛熟してしまったのではないだろうか。あとは腐っていくのではないかという予感。このまま、女性は女性同士で増えていき、男性は地球上からほとんどいなくなってしまうだろう。まだクラスに男子がいて、男子と付き合ったりする女子がいるけれど、完全にそんな時代がきたときに、人類はどうなってしまうのだろうか。「男性」がない状態で「女性」は成り立つのだろうか。はるか先の話というわけでもない。クラスメイトが男子と付き合ったことがこのような形で噂になっているというのが、もうそういう時代が始まっていることを物語っている。
 クラスメイトの話がひと段落して、他の話題に移った。件の女子は二年生になって初めて同じクラスになった子だ。小学校は別だったはず。クラスメイトではあるのだけど、話したことがないうえに、欠席や早退が多くて詳しいことは知らない。私は彼女のことを考えながら、授業を上の空で聞き流してこの日をすごした。その女子は今日は休みだった。


 環状八号線、通称カンパチ。そして国道246号、通称246。この二つが交わっている世田谷区の用賀に私の住んでいるマンションはある。

「おかえり佳奈子」

「ただいまサエコさん」

 ドアを開けると、クーラーの冷気が軽く汗ばんだ体をふわっと覚ましてくれる。リビングのソファーの上、スウェット姿でくつろいでいたのは、私の母親の内の一人、サエコさんだ。私を産んだのはもう一人のマリエさん。二人は同級生で、歳は34。出会ったのは大学に通っていた頃だそうだ。結婚を決めたのはマリエさんのほうで、その彼女は現在に勤め人をしている。サエコさんはパートと家事で家庭を支えている。

「今日は何食べたい?」

「ん~、特にないかな」

「そういうのが一番困るんだけど」

「だって、まだお腹すいてないんだもん」

帰宅部の帰りは早いよね~。中学生はバイトもできないんだし、部活でもやればよかったのに」

「いいの、入りたい部活もなかったんだし」

「じゃあ暇でしょ? 帰ってきてすぐに悪いんだけど、ちょっとお使い行ってきてくれない?」

 私の返事を待たず、サエコさんは自分のカバンから財布を取り出す。

「え~、サエコさんこそ暇そうじゃん」

「私は暇だけど元気じゃないかな」

「風邪でもひいたの?」

「いや、ちょっと見たいテレビがあるだけ」

「何それ!」

「お釣りでお菓子買ってもいいから」

 この前お小遣いを使ってしまった私に、それはかなり魅力的に聞こえてしまった。

「ん~でも……」

「私ハーゲンダッツ食べたいな。抹茶ね。佳奈子も好きな味の買っていいよ」

 結局私はお使いへと駅前のスーパーに来ている。ハーゲンダッツを切り札に取っていて、あのタイミングで出してくるなんて、大人はズルい。頼まれていた食材と調味料をカゴに入れて、最後にアイスのコーナー。持たされたお金で支払いを済ませて、私は店を出た。
 レジでスプーンをもらったので、それでアイスを食べながら帰る。クーラーの効いた部屋で食べるよりも、外で溶けながら甘さを増すアイスを食べるのが私は好きなんだ。少し遠回りをして帰ることにしよう。駅前、まだ四時になったばかりだけれど、主婦たちはもう夕飯の買い物へと商店街へ集まっている。裏路地へ抜けると、急にそこは静かな住宅地だ。学校を終えて家路へ急ぐ小学生や、犬の散歩をしているおばあさんなどがいる。宅急便の配達員の若い男の人が額に汗をかいて荷物を持って走っている。ジージーワと蝉が鳴いていて、アイスをよりいっそうおいしく感じさせてくれる。
 図書館の方を通って帰ろう、そう思って角を曲がると、塀に登っている女の子を見つけた。たしかあの塀は隣の空き家のものだ。女の子は塀の上に立って、空き家の庭から生えている木へと手を伸ばしている。そろそろと動かしていたのだけど、急に素早く腕を動かした。

「あっ」

 女の子の体勢が不安定になり、ゆらゆらとしている。危ない、と思ったが、その子はスカートが捲くれ上がるのも気にせずに塀から飛び降りた。ふわりと綺麗に着地した。運動神経がいいのか、慣れている動きだった。 
 スカートの汚れを払っているその子と目が合った。

「あれ、佳奈子ちゃんじゃない?」

 急に下の名前を呼ばれて驚いたが、よく見ると見たことのある顔だった。でも名前がわからない。

「えっと、ごめんね。クラスの子?」

「え~、覚えてないの? でも休んでばっかりだからしょうがないか」

 休んでばかりのクラスメイト。あの子だ。

「マチコだよ。これからは忘れないでね」

「うん、わかった……」

 どうしよう。あんな話を聞いたあとに、まさか二人きりになってしまうなんて。わかっていたら、気づいたときに道を変えることもできたのだけど……。

ハーゲンダッツだ、いいな~」

「お使い頼まれてて、その帰りなんだ。マチコちゃんは何してたの?」

 マチコちゃんは何も言わずにこっちに近づいてきた。なにやら口の端がぴくぴくしている。

「それはね……」

 後ずさりする私の前まで早足で近づくと、私の目の前で手を広げた。しかし、指でつままれた蝉に私は驚いてしまい、声を上げてしまった。

「ひゃっ!」

「あっははははは! 蝉捕まえてたんだよ~」

 心臓がドキドキしている。楽しそうに笑っているマチコちゃんは蝉を空へと放るとこっちに向き直る。しかし、その目はもう笑ってない。

「あ……ごめんね……」

 どうしたのかと思ったら、驚いた拍子に私はアイスを取り落としてしまったらし。地面に溶けたクリームが流れていく。

「びっくりさせようとは思ったんだけど、これは想定外だわ……本当、ごめんね? 服汚れなかった?」

 申し訳なさそうな顔でこちらへ擦り寄るマチコちゃん。顔は焦りでちょっと泣き顔になっている。私はもうほとんど食べ終わっていたのと、悪気がなかったからというのでまったく怒ってないことを説明した。マチコちゃんがあまりに気の抜けた声音で、先ほどまでとえらい違いで気の毒になってきたのだ。
 マチコちゃんの顔をそのときちゃんと捉えたのだけれど、眉毛が綺麗な形をしていて、鼻筋がすっと伸びてちょっと大人びた美人に感じた。焦ったときは目がこんなにも大きく開くのか、と面白いような気がした。しかし、服装には気を配っていないのか、地味なスカートに子供みたいなTシャツでスニーカーを履いていた。髪も手入れすればいいのに、ただ伸びているだけといった風だった。

「大丈夫だよ、ホント、大丈夫だから、ね?」

 最終的には、私の方が彼女をなだめているようになっていた。
 ようやく落ち着かせることができると、マチコちゃんと図書館の横の公園まで歩いていって、そこのベンチで座って話した。

「佳奈子ちゃんってここらへんに住んでるの?」

「そうだよ、ここからだともうすぐそこ」

「へぇ、じゃあ私たちってけっこう近くに住んでたんだね。朝とか今まで一回も会ったことないのに」

「マチコちゃんもここらへんなんだ」

「そうだよ、カンパチ沿いの車屋のそば」

「あ、近いなぁ。歩いて五分もかからない」

「あんまり朝に間に合うように学校行かないし、よくサボっちゃうからなぁ。会わないのも当然か」

 何してるの? と聞きたかったけど、言葉がグッと喉を下った。なんだかこれは言わない方がいいと思ったのだ。しかし、そんな私の心情を察してか、マチコちゃんの方から話を切り出した。

「私ね、お父さんと二人で住んでるの」

 マチコちゃんには父親がいたのだ。男性と女性の間から産まれた子供。現代の子供にはとても少ないのだが、確かに存在するとは聞いていた。まさかこんな身近にいたとは。

「お母さんが他の女の人と家を出て行って、それで私とお父さんだけになったの。なかなか仕事が見つからなくて、今は家でできる仕事を二人でやってる。私、内職で夜更かししてよく学校休むんだけど、早退ときはタイムセールに行ったりしてるよ。あとは意味なく、なんとなくつまんないから休んじゃうときもある」

 父親の仕事が見つからないのは、男の人だからで、稼ぐのが大変だということ。学費は前の母親が少し援助してくれているということ。服は親戚からお古をもらったりしているということ。お父さんと遊んで育ったから、虫も平気だということなどを話してくれた。

「私は外で遊ぶのが好きなんだけど、もう同い年の女の子はそうじゃないみたい。虫なんて興味ないよね。カブトムシとか蝉とか、よく神社でお父さんと取ったりしたんだけどなぁ」

「私も、虫は苦手だなぁ」

「ねぇ、佳奈子ちゃんって私の話聞いてくれるのね。ウチに来て、もっと話さない?」

 ぐいっとマチコちゃんが近づくと、男の子みたいな汗の匂いが香ってくる。でもなんだか嫌ではない匂いだ。私もマチコちゃんに興味があったし、何よりも男子と付き合った話を詳しく聞きたいと思った。

「うん、いいよ。夕飯までならね」