小説『ちなみとちひろ』第六話

「いったーい」
 床に膝から着地し、グラスの中のアイスティーを前方にぶちまけたクラスメイトは、いったんグラスを床に置き、うずくまりながら膝をさすっていた。私には背中を向けるような体勢だった。あー、とかいー、とか言いながら。
 私とクラスメイトの目が合う。私は敵意をむき出しにして睨む。内心ではドキドキしていたが、悟られないように気を付けた。一体、自分は何をやっているんだろうと思った。でもその時に私が考えていたことは「なんだろー、やっぱ腹が立ってたんだろうな私。だからこんなことやったんだろうなー。って、自分のことじゃん、なんか他人ごとみたいに言ってる、じゃなくて考えてるけど。それってまずいんじゃない? 自分のやったことについて責任全くとらないでそれ放棄して。うわー、でも、やっぱ、よくわからないけど私は腹が立ったんだよなー。頭の悪い、恋愛以外に興味がない人の言うこと聞いてたら、やっぱ腹立つって、うん」という自己正当化に等しいようなことだった。彼女が話しかけてくる瞬間を今か今かと待ち構えていた。

       
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 それから少しずつちなみと仲良くなっていった。時にクールで、時にお茶目なちなみ。今回はそんな愛すべきちなみの話を主にしようと思う。
 二人きりのとき、ちなみは私のことを、下の名前でちひろと呼ぶ。クラスで用があるときは絶対に山咲さん、と名字にさん付けで呼んでくる。私は最初の内は緊張していて、二人きりのときもクラスで呼びかけるときも黒田さんと呼んでいたのだが、やがてちなみがそれをとても嫌がるのと、距離が縮まって抵抗が薄くなったのとで、ちなみ、と呼ぶようになった。名前で呼び合うことに慣れたのは、それでも、たぶんトイレでの一件から一ヶ月も経っていない。ちなみにとっては長かったかもしれないが、私にとってはあっという間に過ぎた一ヶ月だった。 
 体育用具倉庫脇のトイレで初めてキスをした時は、夏休みが終わってすぐの季節だった。秋が始まる頃に二人の距離は少しずつ縮まり、名前で呼び合うようになって、衣替えをした頃にはもっともっと親密になった。
 それでも、体育の授業で、二人一組になるときにちなみと組むことができるようになったのは晩秋だった。あまりにちなみがごねるので、今度の体育のときは絶対に組むと言ったら、男の子のようにはしゃいでくれた。ただの柔軟体操やキャッチボールの相手にさえ、私以外は嫌だと言ってくれたのだ。そして私が他の人と共同作業をするのが嫌だとも。
 秋といえば、この町の秋の訪れは、学校脇の緑が豊かなダムに自生する金木犀の香りで知ることができる。月桂樹や枇杷も植わっているらしいのだが、どれも常緑樹のため、紅葉というものを見ることがあまりない。校内の遊歩道にあるもみじだけが、唯一秋っぽく染まる。ちなみはこのもみじの赤が好きだという。土壌の栄養によるのか、色があまり鮮やかではなく、少し茶色のまざった赤色が好きなのだという。私は、血の色っぽくてあまり好みではないが、落ち葉を拾ってしおりにしようかな、と喜んでいる綺麗なちなみと一緒にいると、なるほど、ちなみにはよく似合う色なのかなと思ったりする。紺のブレザーと血の色の葉っぱが秋風に揺らめいて混ざり合い、そのコントラストは見事なものだ。
 ちなみと下校していると、町に植物が少ないことに気付く。ちなみが植物を見つけ次第、その名前を指差して言ってくれるのだが、なんども聞いてると、興味のない私にでもすぐに覚えられる程度しかこの町には緑がないからだ。「生命感のある色」が好きだというちなみは、そのことをよく残念がるのだ。
 そんなちなみの身の周りの物には、あまりそのような色が見当たらない。シックな、と言えば聞こえはいいが、ただ単に選ぶのを面倒くさがったとも思えるような、地味で、黒っぽい物が多い。でも、決しておばさんくさくなったりちなみ自身が地味になったりはしない。どれも、自然とちなみに似合ってて、ちなみの身のこなしの優雅さと、それらの落ち着いた色たちは調和しているように見える。
 ちなみが言うには、この私には、その「生命感」を覚えるそうだ。私にはよくわからないが、空手部の道場で、胴着姿の私が走ったり跳んだり、また拳を突き出して軸足をきゅっと捻る動作がいちいちつぼらしい。ちなみの話からいきなり私の話になってしまって恐縮だが、ちなみの性格が少しは伝わるかと思って。
 彼女は帰宅部のくせに、私よりもずっと運動神経がよく、足も私より速いし、単純な力くらべでは絶対に私は勝てない。空手だって、もしもちなみが本気でやれば、すぐに男の部員をなぎ倒すくらい強くなるだろう。あのときトイレで関節を決められたのだって、もしかしたらわざとかかってくれたのではないかと思うくらいだ。
 私は、最初ちなみはピアノやバイオリンでも習ってて、クラシックを聞きながら育った良家のお譲さんのようなイメージを持っていたのだが、それは全く違っていて、五つ年上のお兄さんや、近所の男の子たちとけっこう腕白に遊んで子供時代を過ごしたようだ。聴く音楽も、クラシックは聴くには聴くけれど、別に好んで聴いているわけではなく、むしろ私が色んな聞いたこともないような人の音楽をたくさん聴いていて、どれか一つが好きということはあまりなさそうだ。
節操なく音楽を聞くちなみは、読む本にだってこだわりが少ない。ハードボイルドでゴツいものも読むし、いわゆる文豪と呼ばれる人たちの繊細な文章も知っている。かと思えば、詩や料理本、医学本やコミックエッセイも読む。男の子と遊んでいた影響なのか、読む漫画は少年向けが多い。何かを知るということに関して、ちなみは貪欲だ。私は何に関しても興味が薄く、その好奇心は見習わなくてはと思う。