小説『ちなみとちひろ』第七話

「てめー、ふざけんなよー!」
 私に足を引っ掛けられて転んだクラスメイトが胸倉を掴んできた。私はシャツに皺が寄るのが嫌だったから、胸倉を掴まれたまま席を立って、その手を乱暴にねじり上げ、相手の重心を崩した。彼女はよろめいて床に尻もちをついた。
私は荷物をまとめながら言った。
「門限過ぎちゃったから、もう帰るね」
 転んだ彼女が床に尻をついたまま、他の客にはお構いなしに、私に罵声を浴びせた。私はそれを背中で聞きながらファミレスから退店した。


                   ※ ※ ※


 今の高校に入学してしばらくしてから私は空手部に入部した。昔空手をやっていた父親に、小さな頃から半ば無理やりやらされていたので、その延長で入部したのだ。だけど、ちなみとつるむようになってからは、部活動にあまり顔を見せなくなった。門限もあることだ、あまり長く遊ぶ時間を確保できないから、部活をサボるのはしょうがないのだ。父親にはこのことは黙っている。休日などに部活動がある日は、胴着袋を持って家を出て、駅のロッカーなどにそれを入れてから遊びに行くこともある。父親にこのことが知られたら、大変だ。父親は私を拘束したがる。それが行き過ぎた愛情だという見方もあるが、客観的に見たらそうであっても私にはただ鬱陶しいだけだ。
ちひろはお父さんに再婚してほしいと思ってる?」
 ファーストフード店でちなみが聞いてきた。日曜日、二人で昼食をとっていたときだ。
「何よーいきなり」
「だってさ、お父さんがちひろに構うのって、お母さんの分までしっかりちひろを育てようと思っているからじゃないかな」
「母親の代わりも果たそう、ってこと?」
「もちろん代わりにはならないけど、愛情くらいは二倍、みたいなさ」
「どうかな、本当に私のことを想ってくれてるなら、少し放っておいてほしいな」
 私の父親が離婚したのは、まだ私が物心つく前だった。だから、私は母親のことは顔さえも思い出せない。授業参観に父親が来るのが嫌だったのは小学生の半ばくらいまでで、それからはすぐに慣れてしまったし、小さい頃は一緒にお風呂も入っていて、そこそこうまくはいっていたのだが、思春期あたりで、父親が私を規則で縛ろうとしたことへ反発して以来、関係は良好ではなくなった。私は今でも父親が苦手で、子供の頃のように打ち解けたムードで会話をしたりできない。
「じゃあさ、ちひろはお母さん欲しくないの?」
「どうかなー、炊事洗濯やってくれるんだったら、私はお手伝いさんでもいいな」
「母親の愛情、ってのは父親の持ってるものと違うんじゃない? 男親からの愛情だけだとちひろは嫌だったりしない?」
 そこはちなみからの愛情があるから私は大丈夫だ。もちろん口には出さなかったが、私はいつもこう考えていた。ちなみが私にとって母親の代わりのようなものだ。少なくとも愛情の面において、ちなみは私に母性を与えてくれる。
「なんとかなるもんだよ。バランスはどこかで取れてるんだよ」
「ふーん、そんなもんなんだ」
 ちなみは納得してくれたようで、いつもの何か考えてそうで実は呑気ってな顔でシェイクを飲み始めた。
 ちなみはちゃんと両親の愛情をもらいながら、反抗もせず、かといって甘やかされすぎず育ったようだ。兄弟との仲もいいようで、よくお兄さんの話をしてくれる。私には兄弟がいない。ちなみは私にとって友達であり、母親であり、そしてまた姉妹でもある。姉だろうか? ちなみは妹って感じではないな。

 昼食をとった後は、二人でゲームセンターに行った。ちなみはゲームがうまく、対戦型のゲームではまず私は勝てない。
「やっぱお兄ちゃんと小さい頃からゲームしてたからね。ちひろは?」
「あんまりゲームとかしたことない……」
「だろうねー、操作レバーの握り方でなんとなくわかったよ」
 容赦なく私を負かしておいて楽しそうに……。ちょっと悔しいので、他に何か勝てそうなものがないか探す。……あ、パンチングマシーン!
「ちなみ、あれやらない?」
「いいよー」
 単純に殴り合いをしたら(いや、しないけど)ちなみの方が強いだろう。でも目標が止まっていたら、コツを知っている私の方が有利なはず……!
 百円玉を投入すると、真っ赤なカバーに包まれた的が現れる。足に体重を乗せて、充分に腰を入れて硬い拳を的めがけて解き放つ。がつんと突き抜ける音がする。いい感触だ、ちゃんとストレッチをしてなかったけど、満足のいく正拳突きだった。結果は80kg弱。成人男性の平均を上回るほどだ。女子高生の平均(私調べ)の1,5倍だ!
「おおすごいじゃん、ちひろー」
 ふふん、こちとら生まれたときから言葉と一緒に空手を覚えたんだ(嘘)。これは勝ったね。
「じゃあ次私ね」
 ちなみが百円玉を投入する。ちなみの構えは――――普通に突っ立ってる! 左手を前に出して、右手を後ろにして、腕を開くような体勢だ。足はリラックスした様子。
「いっくよ―――――ッ」
 瞬間、はるか後方にあったように見えた右手が矢のように的を射抜いていた。屋上から机を落としたらこんな音がするだろうかというくらいの音がして、そして空気がびりびり震えた。やや斜め上に打ち出された右手は軽く開かれていた。掌底打だ。
「ごっつぁんです、なんてね」
 あれ、突っ張りのつもりだったのかな?
 結果は……私の倍近くあった。ちなみにはかなわないなぁ……。
 ちなみがパンチングマシーンでその店のハイスコアを叩き出した後は、カラオケに行った。私はあまり歌うのが好きじゃなかったけど、ちなみが乗り気だったのだ。カラオケが好きだけどあまり行く機会がないというちなみは、部屋に到着するなり数曲を機械に入力し、始終楽しそうに歌っていた。技巧的なことはわからないけど、どれも伸び伸びしていて楽しそうに歌っていた。会計のときには、私ばっかり歌ったから、と言って奢ってくれた。バイトはしていないみたいだけど、親の手伝いをしてしっかりお小遣いは持っているみたいだ。
 私の手を取って、カラオケボックスから連れだすちなみ。ちなみの手は箸より重たい物を持ったことがないような、柔らかくて細くて白い、とても綺麗な手だ。怪力だけど。
 二人で手を繋ぎながら歩いた、夕焼けが綺麗な帰り道、ちなみとこんな会話をした。
ちひろ、私のこと好き?」
「好きよ」
「どこが好き?」
「いっぱいあるよ」
「言って」
「艶やかな黒髪、お守りに持っていたい」
「そして?」
「柔らかそうな耳、携帯のストラップにしたい」
「うふふ」
「悪いこと考えてそうでぞくぞくする目、その目ん玉で世界を見てみたい」
「これは、駄目、あげられない。ちひろのことがよく見えなくなるのは嫌よ」
「残念。その肌、白くて不思議で好き」
ちひろの方が弾力があっていいと思うけどね」
「そしてシルエットが好き。美術品が歩いてるみたい。石膏で固めて部屋に飾りたい」
「嬉しい」
「細い手が好き。私より力強いのに、手先は器用よね」
「活躍する時はちひろの髪をくしけずるときくらいかもね――――もしかしてまだある?」
「あるよ、胸の形が整っていて羨ましいし、お尻もすっきりしてる」
「私はちひろみたいにわんぱくなシルエットが好き」
「茶化さないでよ、ちなみはひいき目なしに、本当に綺麗」
「何度も言われるとさすがに白々しいわ」
「でも嬉しい?」
「もちろん」
そうだ、と言ってちなみは鞄から筆入れを取り出し、ポケットサイズのハサミを手に取った。あ、と思う間もなく、ちなみは後ろ髪をちょこっと切ってハンカチに器用にくるみ、で私に渡してくれた。
「何してんの!」
「耳は無理だけど、髪なら……。お守りにしてくれるんでしょ」
「確かにそう言ったけど……」
 このとき、私は内心ではとても高揚していた。
「私はね、ちひろが欲しいものは何だってあげたいの。それが私自身なら、嬉しいからなんのためらいもなく、即行であげちゃう」
「だからって……」
 言い淀む私を見据えて、ちなみは私にしっかりとした口調で言った。
「友情と愛情の違いわね、ちひろ、それは相手を支配したいと思うかどうか」
 堂々と言った。言ってくれた。
「ね、ちひろ、私の一部をもらってよ、支配していて」
 恥ずかしいから態度には出さないようにしていたが、私は全身が熱くなるのを感じ、ちなみと目を合わせることができずにちなみの胸元や足元を見るばかりだった。そのせいですっかり私の感情は読みとられてしまった。
「嬉しい?」
 もちろん、だった。でもそれは恥ずかしくて言えなかった。繋いでいた手をほどき、そっぽを向いて歩きだすことにする。ちなみは大股で私の隣に追いつき、また手を繋いでくれる。私を繋ぎとめてくれる。私を支配してくれる。